ている図様を華麗な細密画として楽しむものであったと言ってよい。本作品は,こうした扇面画による源語や勢語の,華麗な細密画のシリーズの伝統を受け継ぎつつ,そのテキストに新味を求めた時代,おそらくは十七世紀前半,寛永頃の物語扇面画の動向を現わすものではないかと考えられる。当時,「舞の本」や「御伽草子」の上製挿絵本や絵巻類の制作が,一時的な流行を見せており,なかには狩野派の画家による作品も知られている。狩野派第三世代の作画活動が,この時期,本来奈良絵本などの形でより大衆的に流布していた唱導文芸にも向けられていたことは,本作品の生成を考えるうえでも興味深い。この点に関しては,あらためて作者・作期の問題と併せ述べることとする。まず,絵とテキストの対応を明らかにしつつ,絵解きしたい。(便宜上,現状の画帖での順に従って,no.l,no.2,…とする。)の絵画化である。画面の順は,no.5→no.2→no.1→no.3→no.4→no. 6→no.14 面がある箇所には扇面の番号と『幸若舞曲集』(臨川書店刊・笹野堅著・1974年)による該当本文の位置を記す。(pは頁を,lは行を表わす)金堂を建立する。さて,鎌足の次女・紅白女は三国一の美人の誉れ高く,異国にまで聞こえていた。唐の太宗皇帝はその美貌の噂に恋焦がれ,奈良の鎌足のもとに勅使をたて后にと願う。鎌足は小国の王の臣下がどうして異国の大王を婿に出来ようかと一度は断わるが,再度の勅使に承諾する。太宗皇帝は喜び,吉日を選び后を迎える船を仕立て寄越す(no.5'p.30, l. 1)。それに負けじと,本朝の大船三百艘を迎え船として用意し,后(紅白女)のためには,竜と名付け,船の紬にはおうむの頭を付け,ともには孔雀の尾をたれ,内には錦を敷き,黄金の瓦が光輝くといった華麗な船を仕立て,玉を垂れ身を飾った女官三百人を選りすぐり乗せた。また,はるばる唐土よりの長旅を慰めんと,迎え舞をする稚児百人も選りすぐり乗せた(no2'p.30, l. 2■l.10)。船は難波の浦に着き勅使一行は奈良にて,鎌足のねんごろなもてなしを受ける。半年後の卯月末,后の船は難波の浦2. (1) no. 1■no.15は幸若舞曲(全五十曲)中,特有物として分類される『大織冠』→no. 7■no.13→no.15となるだろう。以下に,ストーリーの梗概を記し,対応する場大織冠•藤原鎌足は春日に参籠し多くの願をたて,興福寺に荘厳七宝をちりばめた-195
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