は,奪い返した「無碍宝珠」を持って鎌足が興福寺に向かうところ,no.15は,供養の法要を盛大にいとなむところと解釈できるだろう。テキストでは,とりたてて語られてはいないが,絵画化に際して画家がイメージを膨らませ送出した場面と見なされる。またno.1も本文との対応に疑問が残る場面である。図様は中国風俗の人物が車を連ねて邸に着いた状況のように思われる。可能性としては,前掲の后を迎えに来た諸卿のほか,后の為に貢物,または施入の品々が諸国より届けられるところ,或いは太宗皇帝が勅使をたてるところなどが考えられる。)である。画面の順は,no.16→no.18■no.24→no.28→no.25■no.27→no.30→no.29となるだろう。以下,同様にストーリーの梗概と,絵の対応関関係を記す。(付した本文の頁,行数は『室町時代物語大成』での位置である。猶,その底本となった笹野堅氏旧蔵本は,上製の奈良絵本で二十二図の挿絵が付いているようであるが,筆者はいまだ実見していない。)大橋の中将という平家の弓取りがいた。彼はかつて平治の合戦で頼朝を捉えた強者であったが,源氏の世にあって,いまは筑紫に住んでいる。梶原景時は,かの中将を退治し,その領国を手にいれることを考え,「彼の中将を捨ておいては,事の大事も出てこよう」と頼朝に具申する。景時は「中将を討て」との下知を得て,三百騎の兵とともに息子源太を筑紫に下らせる。源太は中将は名ある弓取り,武力ではかなうまいと,はかりごとをめぐらせる。まず兵を隠し,わずか郎党四,五人ばかり引き連れて,中将の館を訪ない,鎌倉方に帰順することを勧める。中将は,別の間で御台所を呼び寄せ,「鎌倉に行ったならば我が身は必ずや誅されるであろう。いま胎内にある子が,もし男子ならば形見にこの法華経をお見せなさい」と,一部の経巻を渡した(no.16'p.269,ゲダンl.11■p.270,ジョウダンl.3)。御台所はそれを聞いて嘆き悲しむ。中将は館を出で源太とうち連れ,鎌倉めざして急ぎ行く。名所,旧跡,里々を過ぎ,鎌倉に辿り着くが,頼朝は対面に及ばずと,中将の身柄を梶原親子に任す。牢に中将を押し込め,はや十二年の歳月が流れた。その間,御台所はて,若君(まに王)七歳の年,下人の子・松若を相添えて,光雲寺という寺にのぼらせた。まに王は,寺で学間をしていたが同輩の稚児に親無し子と指さされ虐められる。を生み育(no.12'no.15にぴったりと相当する本文箇所は見あたらないが,図様から見て,no.12(2)no.16■no.30 (no.17を除く)は,古浄瑠璃を基にする『大橋の中将』の絵画化-198
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