鹿島美術研究 年報第7号
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そこで里に帰り(no.18'p.272,ジl.11),母に父のことを訊ねるのであった。御台所は,夫・中将のことを語り,鎌倉に下った後,その消息が絶えたままであることを話し,寺に上げたのも父の菩提を葬らわせんがためであると言う。そしてまに王に父の形見であると,かの法華経を取り出し与えるのであった(no.19'p.272,ジl.12■p.273,l.2)。その後,寺に戻ったまに王は法華経を日々学びつつ暮らしたが,ある日,松若を呼び,父の行方を訪ね鎌倉へ赴くことを決める。二人は髪を帽子に包み,法師の姿を借りてひそかに出発する。松若の背には,形見の法華経を入れた経箱が負われていた。筑紫より船に乗り,名所・旧跡を眺め越え,兵庫の浦に上陸する。都に入っては,清水寺に参詣し,起請をかけて夜が明けるまで法華経を読誦した(no.20'p.275,ジ!.6 ■l.10)。二人は旅を続け,胎河の国では富士の煙を眺め(no.21'p.275,ゲ1.16),伊豆三島では明神を拝み,かくして遂に鎌倉に辿り着き,まず若宮八幡へ参り,父に会わせ給えと起請をかけ,かの法華経をとり出し読誦するのであった。人々は,その経を有難く聴聞するのであった(no.23'p.276,ジl.10〜ゲl.9)。ちょうど右大将の御前(頼朝夫人)も参り合わせ,この由をご覧になって若宮の顕現かと不思議にも思う。そして安東七郎を召し寄せ,この稚児(まに王と松若)を預けておくのであった(no.24'p.276,ゲl.10■l.17)。御前は御所に帰り,頼朝に若宮で不思議の稚児に会ったことを話す。頼朝は梶原源太を召し,この二人の稚児を連れて来るように命じる。源太は若宮に赴き,頼朝のお召しがあったことをまに王に告げる。まに王は,若宮八幡のお引き合わせと喜ぶのであった(no.22'p.277,ジl.18)安東七郎は,御所に伺候するのであるからと,着替えを勧め小袖や水干などの衣裳を差し出す(no.28'p.277,ジl.14〜ゲl.15)。かくして,まに王は御所に入り,頼朝に会うことになった。頼朝は大紋の指貫,とくさ色の狩衣,立烏帽子に笏を手にするといった出で立ちで,御まえには多く侍たちが居並んでいた。まに王は,求めに応じ,臆せず続経し,人々は感涙にむせんだ。望みを述べよとの頼朝の仰せに,まに王は父のことを話し,もしこの世に生きてあるならば対面したいと願うのであった(no.25'p.278,ジl.2■p.279,ジl.4)。頼朝は易きことと,梶原を召し寄せ大橋の中将を連れて来ることを命じる。梶原は,その当日,中将を切れと申しつけ由比が浜に遣わせたところであったので,急ぎ馬に乗り由比が浜に駆けつける。さて,中将は牢から引き出され(no.26'p.279,ゲl.14■15),由比が浜にて西向きに据えられたところであった。中将は末期の前にしばし成仏の御法を説に来合わせた-199-

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