鹿島美術研究 年報第7号
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゜また,no.22は明確な標識となるモチーフが判然としない。御所で頼朝とまに王が対vヽきたいと,仏法のはじまり,法華経の功徳を雑色達を前に説く。そこへ梶原が着き,頼朝の命を告げ,御所へと連れていく。まに王は父に駆け寄り,親子の名乗りをあげに王を左少将春澄となし,四国九国を安堵して与えるのであった。中将達はともに鎌を発ち筑紫へ帰った(no.30'p.281,ゲl.15■17)。それから後,中将一家は栄えたという(no.29'p.282,ジl.3)。これはひとえに法華経の功徳であると言わない人はなかった。(テキストとの対応で,まず問題となるのはno.17とno.22である。no.17は,門前で見送りの涙にかきくれる女性達の姿が描かれており,中将との別れを悲しむ御台所とも解釈できるが,中央の女性の装束から判断して次の『新曲』に該当する蓋然性が高面する場面とも考えられるが,廊に立つ人物の装束が本文の頼朝の記述と合わず,ま向した姿と解釈し,若宮八幡にまに王達が参詣したところと考えておく。全体として画面はテキストを逐語的に絵画しているが,no.27では,中将とまに王の対面が由比が浜での出来事として描かれており,より劇的な高揚を得ている。さらに本文の記述との不一致を示すのは,まに王と松若が稚児姿に戻らず終始法師姿で描かれることである。no.28で安東七郎から着替えの水干を渡されている状況を描くにもかかわらず。)の順は,no.31■no.38→no.17→no.39■no.60となるだろう。以下,同様にストーリーの梗概と図様の対応を記す(本文は笹野堅著『幸若舞曲集』を対照した)。頃は,元弘・建武のことである。一の宮はすでに元服され,そのオ覚や容顔も優れ,世間では定めて東宮におなりになると思っていた。しかし,関東の意向で後二条院の御子が東宮に立たれた。一の宮は失意のうちに詩歌にのみ心を寄せ,恋に興ずることもなくただひとり月日をおくっていた。ある時,関白家で絵合があり,洞院の左大将が出された源氏の檎姫の絵に,宮はすっかり心を奪われてしまう(no.31'p.537,l. 3■p. を思い浮かべつつ川を逍遥された(no.32'p.538,l. 6■ 9)。日暮れて帰る道すがら,一条あたりの荒れた屋敷から,青海波を弾く気高い撥音が聞こえてきた。車を止る(no.27'p.279,ゲl.16■p.281,ジl.16)。頼朝は哀れに思って,中将を許し,またまたno,25の場面があることからも,首肯できない。とりあえずこの人物を若宮八幡の影(3) no.17およびno.31■no.60は,幸若舞曲の『新曲』をテキストとしている。画面538, l.5)。ある日,賀茂の糸しの宮に詣で,御手洗川で御手水を召され,業平の楔ぎの_200-

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