である。また,同様にno.46と「中門さいてきって出。すすむかたきを三人。手の下にきりふせ。のこるかたきを大庭へ」との合致性など,no.17とno.60の二面を除くと,『新曲』は『大織冠』,『大橋の中将』に比べ,テキストと図様との対応関係が際だって密接である。さらに先述の如く源氏絵と見まがう図様の存在。このような物語絵パターンからのあからさまな仮借は,図様形成の道筋において,この『新曲』が初発性やオリジナル性をいまだ揺曳させている状況あることを想定させる。イメージの引用の様態は,いまだ生々しく初な状態にあるのである。『大織冠』では,図様の定型化とその成熟は著しく,このような型どり自体も充分にこなれているように見受けられる。れたことが知られ,絵画化作品もかなり伝来している。そうした多くの作画の上に,本作での図様も成立していることは,それらの遺品との図様の比較からも明らかである。『大橋の中将』もまた,先行作品の図様の伝統が,そこに完成れた物語表現を可能にしている点で,『大織冠』と同様に考えられるが,ストーリー自体の性格が他の二話とは異なり,それ故に絵画化の姿勢にも異質な傾向が看取される。例えば『大織冠』では物語から視覚的に印象的な場面を抽出することで,ストーリーを語り出していた。また『新曲』では,戦闘や海上の情景という偏愛する図様の集積と源氏絵など古典的なイメージの型どりによって,ストーリーを逐うのであった。しかし,ここでは場面選択法は出来事の経緯をわかりやすく逐うことに置かれ,画面は物語絵画のオーソドックスなストーリー表現をかたくなに遵守しているのである。このことは,これが幸若舞曲でなく古浄瑠璃の詞章からの派生本文であることと無縁ではあるまい。ここには目も綾な異国趣味や不可思議な異郷性はなく,法華経の功徳と親子の情愛がしみじみと語られているのである。もちろん,名所尽くしといった読者サービスも含まれており,諸寺諸社の霊験輝も巧妙に張り巡らされているのではあるけれども,テキストはあくまでも出来事の展開に重点を置き,素朴にストーリーを語るのである。画面もまたこのようなテキストの性格を反映し,他の二話に見られるような場面性の突出といった趣きはほとんど認められない。絵画化にあたって,名所巡りといった魅力的なモチーフが存在しているにもかかわらず,そのような箇所から選択された場面は,わずかに清水寺と富士山の二場面だけである。いわばアイキャッチに頼らないストーリー表現に徹しているのである。以上,本作品からは扇面画シリーズによる物語表現の様々な局面が看取される。こ『大織冠』の話は,当時きわめて好ま_205-
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