例を見出すのみでこれ以前に類例はなく,仏像の制作を以て知られるクシャーン朝治下のガンダーラやマトゥラー美術では現在のところその種の例は確認されていない。他方,中国では西秦,北涼期(4世紀末〜5世紀初)の敦煙莫高窟,永靖柄霊寺石窟などに壁画の例を認め,北魏期の5世紀半ば以降はこれら石窟をはじめとして,雲岡石窟やその他碑像の類に,壁画あるいは浮彫として相当数の作例を遺すようになる。これら作例に拠る限り,千仏への関心はインドにおいてより,むしろ中国で高かったように思われ,このことは,彼地で東晋以後,賢劫千仏名経等をはじめとして諸種の仏名経の伝説,撰述があり,同時に仏名を唱礼して懺悔滅罪を祈るいわゆる仏名会の盛行を見たことに照らしてもある程度帰納される。ただ,中国の諸例の多くは小仏を縦横に整然と並べて既に定形化された感があり,そうした多仏表現が中国ではじめて成立したとは考えられない以上,その先縦に関しては当然インドにまで遡って眺めてみる必要がある。千仏図成立の契機としては,必ずしも定説ではないが,従前釈迦の舎衛城における千体の化仏示現の奇跡(舎衛城大神変),あるいは過去七仏との関連が考えられている。実際,舎衛城大神変の例ならば,議論はあるもののラホール博物館にこれをあらわしたと見られる像があり,また先のアジャンターでは第1,17窟が同様の主題を扱うものとして知られる他,過去七仏に関してはガンダーラ美術に少なからぬ造例を遺している。千仏図の起源はおそらくこの何れかに求められるであろうが,千仏図の以後の展開を考慮する時,起源として果たしてどちらを妥当と考えるか。先にも触れたように中国において千仏図の典拠となったのは多くのいわゆる仏名経の類で,最近の中国の研究によれば,莫高窟や雲岡石窟など北朝期の千仏図のうち銘記等によって確かめられるものは,『過去荘厳劫千仏名経』『未来星宿劫千仏名経』『観薬王薬上二菩薩経』『決定毘尼経』『称揚百七十仏名経』等に依拠する過去荘厳劫千仏,未来星宿劫千仏,五十三仏,三十五仏,百七十仏などであり,『賢劫経』や『現在賢劫千仏名経』にもとづく賢劫千仏は未だその例を見ないという。何れにせよここに説かれる諸仏は早くに成立した過去七仏説を承け,仏陀の説法の伝統的なることを強調するため,その先覚者(師仏),継承者を過去,未来に向けてその数を次第に増大させ,結果として三劫三千仏説へと展開するものであり,これを見る限り中国早期の千仏は生身仏の範囲を出ない,換言すればガンダーラ以来の過去七仏の発展にとどまっている,と一応は見なすことが出来るかも知れない。しかし,その場合もたいてい立仏七体を横に並べたガ209-
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