buddha)であり,機宜に応じて化現するそうした化仏ー化仏の意味内容自体も必ずしンダーラの過去七仏像と,県多しい小坐仏を縦横に整然と配す中国早期の千仏図とは表現上明らかに懸隔があり,相互の関連を明らかにし得ない困難がある。あるいは,ガンダーラの奉献塔の基壇周囲にしばしば付される多くの小坐仏やキジル石窟などに見られる構図の中心に仏を据えて多数描かれる,いわゆる菱形因縁図と呼ばれる一群の作例がこの間の推移を知る上に何らかの手掛りを与えるかも知れないが,これらとの関係についてはなお不明のことに属す。一方,釈迦の舎衛城大神変における千仏示現を千仏図成立の契機とするのは,いわゆる千仏図と殆ど同様の多仏表現が,主としてアジャンター第1,17窟の舎衛城大神変の構図に認められることから提説されたものであり,『ディヴィヤヴァダーナ』などに説かれる釈迦によってなされた千体の化仏示現の奇跡とその後これにもとづく造形化が,賢劫千仏説に関係づけられて千仏図成立に影響を与えたとする考えは,同形同大の仏を多数並べるという,少なくともその表現に関して蓋然性の高い意見と言える。しかし,舎衛城において釈迦が示現したのは,自らの変化身たる化仏(原語nirmanaも明らかでないーと,三劫三千仏説,賢劫千仏説などが言う過去から未来にかけて間欠的に出世する生身仏としての諸仏とが,仏教思想史上からも直ちに結びつくものであるかどうかは問題でなければならない。千仏図成立の契機については,叙上のような解決すべき課題であるが,これらに関連して,千仏の思想的基盤たる過去および未来多仏出現説はいわゆる大小乗共許の教議とされるものの,例えば隋初唐期の莫高窟の壁画などに見られる浄土図を囲む千仏図が,果たして旧来の三劫三千仏,賢劫千仏説に依拠するものかどうかもあらためて問われるべきである。周知のように大乗では阿弥陀仏,薬師仏をはじめとして諸方に仏世界があり,十方に諸仏の現在することを説くが,壁画の主題が明らかに浄土図である時,これを荘厳する千仏図は時間的に縦に連なる三劫三千仏説に拠ると見るよりは,大乗の鼓吹する釈迦の報身たる十方現在の諸仏の遍満するのを意図したとする方がむしろ適当ではないか。この場合,莫高窟などではその多仏表現に全く変化は認められなくとも,北朝期と隋初唐期以降の千仏図では必然的に思想内容を異にすることとなる。これに関しては現段階で明証は得られず,また仏教の思想史的研究の上にも拠所を見出せないが,殆ど大乗によって主導される隋唐以降の美術と,その間の千仏図流通の状況を考慮する時,少なくとも中国において千仏図制作に思想上劃期すべき210
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