鹿島美術研究 年報第7号
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出を求められた作品である。もっとも,17世紀半ば以降フランスの建築内部装飾に頻出する四季の図像はそれぞれの季節を神話の神々によって再現する方式が一般化しており(4),18世紀の後半に作成されたこれらの作品も,その伝統に連なるものと言うことができるだろう。ところでプランを一瞥してみれば,天井の中央に一日の時間の運行を,それを囲んで四季と12カ月を表し,その自然界の運行を支配する要にアポロン神を置こうとした画家の意図は明らかであろう。この縦に長いフランスに特徴的なギャルリーの装飾を行なうにあたり,ル・プランは中央の大きな区画を中心に,その左右にシンメトリカルに大小の区画を配置するという方式を採用した。これはかれの独創ではなく,すでにみたように,ペリエやロマネリが試みた方式に基づいている。ことに,太陽神アポロンを中心とした図像は,ル・プランの師であったペリエのラ・プリリエールのギャルリーの装飾を想起させずにはおかない。しかし,アポロンの間の装飾は,より強くル・プラン自身の未完に終わったヴォーの城館のグラン・サロンの装飾プランを連想させるのではないだろうか。もう一度,グラン・サロンの装飾を振り返ってみよう。アポロンの神殿を再現するさいに,ル・ブランは太陽神の回りに四季を配し,図の周辺を時を示す蛇で囲んだ。アポロンの足下ではケレスによって夏が示され,フロールが夏バッコスが秋,アポロンを狭んだ夏の対称の位置にはアイオロス及び寒さに身を縮める老人が冬を表わしている。この装飾の中断は1661年のことであり,アポロンの間の装飾が始められたのはこの年のことである。ル・ブランは中断されたこの装飾プランを,アポロンの間に応用しようとしたのではないだろうか。このことは,ル・ブランがギャルリーの装飾のある部分に詳細なデッサンを残し(5),他の部分にまった<,あるいは不完全なデッサンしか残さなかったという疑問に答えてもくれるのである。つまり,「水の勝利」あるいは「大地の勝利」などに,実行を待つばかりといった周密なデッサンを残したのは,それがヴォーにはない新しい要素であり,一方中央部の大画両には,スケッチ風の,四季にいたっては全くデッサンを残さなかったのは,おそらく未完のプランをこのギャルリーで実行する心積もりで画家がいたことの間接的な証拠と言えるのではないだろうか。そう考えると,ドラクロワが描いた「アポロン」は,ル・ブランの意図とかなりずれたものであると言わなくてはなるまい。このことはル・ブランがこのギャルリーの装飾で実現しようとした内容を考えてみるとき,一層明瞭になると考えられる(6)。アロボンすなわちルイ14世を中心に据えるこの装飾プランで,ル・ブランは王の何-214-

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