鹿島美術研究 年報第7号
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を具体的に顕彰しようとしたのだろうか。四季を司り大地や海に光を授ける自然界の運行を統轄する神としての太陽神は,王の支配者としてのイメージを視覚化し,これを顕彰したものであることは,異論のないところだろう。しかしながら,ル・ブランの意図はもう少し先にあったと考えられる。3つの点を指摘したい。四季の図を縁取る枠の下にル・ブランは2人ずつの8人のミューズを,入り口の「大地の勝利」の下にクリオを置いた。いずれも,ル・ブランのデッサンに基づき,60年台にジラルドン,ルニヨダンらがストゥッコで完成させた(7)。こうしたミューズの存在がまずひとつ。もうひとつ,ル・プランが12カ月を表すために採用した図像は,たとえば9月は「プドウの収穫」,10月は「種播き」といった中世以来見られるとはいえ,この時期に邸館を装飾するものとしては例が多くなく,神話の神々が集う場に相応しいものではないということ。つまり12カ月の表現もこの時期のフランスでは神々で表すのが通例であり(8),一種のオリュンポスとも言えるアポロンの間の装飾の体系に,なぜ農耕の場面を描いたのか,これをどう考えるか,これが第2の点である。最後に念頭に置くべきは,この装飾が企てられた時期は1648年に誕生した美術アカデミーが,新たな組織に向けてル・ブランを長に再編されようとしていたというル・ブランをめぐる状況である。こうした事情を考慮すると,次のように言えそうである。ル・ブランはギャルリーをアポロンつまりルイ14世の支配者としての側面を顕彰する場とする以上に,王の芸術庇護者としての性格を強調し,さらに言えば,諸芸術,なかんずく神々の世界をも日の世界をも,さまざまな季節の自然の実りをも,自在に表現できる,絵画芸術の礼讃の場としようとしたのである。こうした芸術へのオマージュとしての空間は,入り口ロ上部の「大地の勝利」の枠取りの一部として置かれたストゥッコによるクリオによって,讃えられているのである。ルイ14世は,ル・プランが中心となるアカデミの後ろ盾,芸術庇護者としてここで君臨している。失火前,プティット・ギャルリーと呼ばれていたこの場所で,若いルイ14世がダンスに興じ,演劇を観賞したことを思い出そう。最早アポロンとジュトンというドラクロワの作品とル・ブランの意図とのずれは明かだろう。実は軍人,政治的支配者としての王は,同時期にかれが手懸けた「アレクサンドロスの物語」連作のなかの,アレクサンドロスとして再現されており,ル・ブランはこのふたつの大作の中でルイ14世を芸術庇護者および政治的支配者としてふたつの側面から顕彰しようとしたのである。ル・ブランは縦長の天井を装飾するにあたり先人の方式を学び,またフーケの城館215-

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