鹿島美術研究 年報第7号
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さらに調査をすすめつつ,実現の可能性をさぐりたい。つぎに,村山等が最初に参加したイタリア未来派の展覧会,1922年9月にトワルディー画廊で開いた二人展永野芳光が出品した無鑑査展に関する新聞記事を探索した。これについては必ずしも期待どおりとはいかなかったが,ひとつ無鑑査展についての評で永野についての言及がみつかった。1922年10月15日付け夕刊の『ペルリナー・ベルセン・クーリエ』紙に掲載されたもので,必ずしも好意的ではない短評である。永野作品が「レジェを想起させるチュープ状のコンストラクションで「キュビストと無対象表現」のグループに属するものとして挙げられている。カンディンスキーをはじめディックスなども出品したこの展覧会で,ともかく批評家の目にとまっただけでも永野が高揚した気分になっただろうことは想像にかたくない。第三として,私達が仲介して村山は表現主義の牙城ともいうべきヴァルデンの「シュトゥルム」に出入りすることになったのだが,その関係文書の調査である。高名な割にはこれまで日本人研究者によって充分な調査がされていない。今回は国立図書館蔵の芳名録と写真アルバムを調べ,まず1922年3月18日,すなわちイタリア未来派展が開催された直後であるが,その日の項に,和達,永野,村山三人の署名,さらに大戦前では1913年10月25日に山田耕作と斉藤佳三の署名をみつけた。また後者に関連して写真アルバムに,我国での「DERSTRUM木版画展覧会」の会場写真2点,さらに斉藤の肖像写真が収められていた。前者については,出品目録の存在しかこれまで知られてこなかったが,これによって当時東郷青児も個展を開催したことのある日比谷美術館という展示会場の様子がうかがえ,また出品作品を一部同定することが可能となる。さらに斉藤の写真にはつぎのような署名があって,帰国の月日を推定する力な手がかりとなる一「いろいろの美しき感じを得て/伯林を去る十二月の日に/我が親愛なる子/ヘルヴァルトヴァルデン様にHerrn Walden Herzl. Griisse/Kaso Sr;;aitoh/'13」。第四として,判明している限りで,村山たちのベルリンでの住所を確認する作業を行なった。村山については著書『演劇的自叙伝』や帰国当初に発表した短編小説などから判断される番地,さらに永野についてはその写真アルバムにあった記載から判明した住所について調査した。これについては,ベルリンの「アドレスプーフ」によって比較的容易に目指す番地や家主の名を検索することができた。そしてさっそく現地を訪れたが,たとえば永野の住んだシュパイカラー街はすでに区画整理のために通り-240-

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