3) ローマ(11月29日ー12月1日)とくに,ハーヴァード大学のプッシュ=ライジンガー美術館のピーター・ニスベット氏は村山知義についてきわめて興味深い情報を提供してくれた。氏はエル・リシッキーの専門家であるが,村山と文通していたと考えられるリシッキーの住所録のMの項に,マレーヴィチ,モンドリアンとともに,村山の名前が記載されていたというのである。まさしく村山たちの国際的な交流を如実に物語る事実といえる。ローマでの調査は短い滞在期間を考慮にいれて,神原泰のイタリア語による新聞記事の検索だけを意図していた。新聞はムッソリーニがミラノで発行していた『ランブロジアーノ』であり,必ずしも目指す記事を容易にみつけられるとは予想できなかった。あらかじめ新聞の所蔵の確認を知人に頼んであったので,調査にはさっそく取り掛ることができた。同新聞はローマの近代・現代史図書館に所蔵されてあり,閲覧してほどなくして最初の神原による寄稿文を確認した。当初,その記事は美術関係に限られたものと思い込んでいた。しかし,最初にみつけた「アクション」グループについての文章(1924年3月22日付け)のほかに,日本の新聞ジャーナリズムについての時事的な内容の記事もあって驚かされた。さっそくコピーをとろうとしたが,禁止されており,困惑していたところ,幸い知人の協力で司書の特別の許可を得て,全部ではなかったが,必要な部分のコピーを入手することができた。ただし,残念ながら,所蔵に一部欠落があり,神原が最初に送った寄稿と一番目のものを確認することができなかった。これについて,デュッセルドルフのシンポジウムで7年ぶりに再会したローマ在住の美術史家ニコレッタ・ミスレル女史が協力を約束してくれたので,いずれ確認できるであろう。以上,今回,貴財団の助成を得て行なったヨーロッパでの調査の成果を略述したが,今後は収集資料をよく考察したうえで,論文にまとめるべく準備する所存である。-242-
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