ロダンの様式展開という点では,1864年,サロンには落選したものの「鼻のつぶれた男」(ブロンズ)で,自然の中に見出される「性格のある」真の美の発見と,参照されるべき古典古代やルネサンスの引用という方式に至っていたロダンも,下積みの不遇時代を送らねばならず,生活のためには,小さな愛らしい女性胸像を制作したり,建築装飾を制作しなければならなかった。その主たる雇い主がカリエ=ベルーズであったが,彼のアトリエでもロダンは多くを学び,また彼の独創性は作品に現われたはずである。ロダンの「青銅時代」(1875-76年)が,定説のように,等身大以上の立像を制作する,当時の「大彫刻家」への第一歩であり,写実を通してロダン様式が成立したとすれば,これが制作されたのがベルギー時代であり,この成立に関しては,1875年にロダンがベルギーからイタリアヘ赴き,ミケランジェロ作品から直接に啓示を受けたことは,広く主張されることである。これは彼の様式成立の最大要因であったことは論を待たないが,しかし,それ以前に,ロダンにおいてどのような彼の様式の開花への準備が成されていたのかはあまり議論されなかったし,その作例の詳細な検討もなされなかったと言ってよい。ここで,ブリュッセルの株式取引所のロダン作とされる,建築装飾の大きな立像や群像についての検討が要請されるのである。〔2〕プリュッセルとパリにおける調査研究我国における文献による準備のうえ,ブリュッセルとパリにおいて,実地の調査研究を行なった。これは,日本においては入手困難な文献資料の収集,作品の実見,研究者や美術館担当学芸員との意見の交換が目的であった。〔2-1〕ブリュッセルブリュッセルにおいては,先ず,現存するロダン作品とカリエ=ベルーズ自身とそのアトリエに関して制作したベルギー人の彫刻家たち,とりわけ,ジョゼフ・ヴァン・ラスブールク(1831-1902年)とジュリアン・ディレンス(1849-1904年)の作例と資料が調査されるべき対象であった。しかし,ベルギー王国の近代彫刻研究者たちの意見では,一般に言って,それらの資料は未整理か,見付け出すのが困難であるということであり,ディレンスのほうは単行本も刊行されているが,ヴァン・ラスブールクのほうは資料は皆無といってよい。さらには,ブリュッセル証券取引所の装飾に関わったとして名前の挙がる,トレル,ノルベール・メヴィス,ジャック・ジャケ等の資料は皆無であった。しかし,ベルギー王立美術館所蔵のロダン,ヴァン・ラスブールクとジュリアン・ディレンスの作品-249
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