くもず1.「瀬古区公民館」の所在地は,三重県一志群白山町大字川口字瀬古。本像はこの瀬古区3.後補,欠損等の主なものは次のとおりである。4.この処置と同様に蓮肉部も厚さ約1センチを残して下方を切り取り,同周縁部は両足2.頭上面のとりつけの状況などから見て,当初は十一面観音ではなく,聖観音であった緒も定かでない。この寺の旧境内にはかつて正応五年(1292)建立の十三重石塔があったが,いまは他所に移され,当地にはその基壇から出た水晶製舎利容器(五輪塔を象る。高4.9センチ。鎌倉期)のみが残る。他に旧寺地とされる墓地に石造五輪塔二基があるが目ぼしい記録もなく,寺史はたどれない。本像と常福寺千手観音と,この二謳のすぐれた9世紀彫像を残す白山町は,伊賀と伊勢の両国を境する布引山地,いわゆる青山高原の東麓に位置する。大和と伊勢を結ぶ古くからの道が青山峠ないしはその近在の峠を越えて雲出川のほとりに出たところで,万葉の時代には「川ロノ関」がここに置かれ,聖武天皇の東国巡行に際しては「河口頓宮」の置かれたところである。のちに仁和年中,鈴鹿越えの道が公道とされてからも,この川口道はその意義を失うことなく,大和・伊勢間の主要な交通路として命脈を保った。この川口はその中継点の一つとして機能し,意識されていたようである。伊勢の斎王退下もここを通ったと考えられている。二謳のすぐれた平安初期彫像が当地に伝来したことは,やはり古来の伊勢路にかかわるこうした歴史的環境と無関係ではないように思われる。〔注〕の所有である。なお,保存上の関係から現在本像は隣接する西称寺に移され保管されている。可能性も考えられる。後考にまつ。なお,頭上面欠失の状況等は注3参照。〔後補部分〕頭上面のすべて,両手先,持物,両腕にかかる天衣遊離部,右耳の耳染,宝髯頂部・後頭部・背面左上方の各補材,宝冠(金銅製),胸飾(同),台座,光背,等。〔欠失部分〕頂上仏面,狗牙上出面ー,瞑怒面ー,大笑面,化仏,白奄,条吊末端(胸部),等。〔改変個所〕垂髪遊離部(左右とも切除),蓮肉の周縁部と下方(切りつめる),背面の裳裾と裳折り返し部(切りつめ,削平),等。〔損傷個所〕右足先,蓮肉正面中央,背面天衣上縁,三道前面,天冠台右後方,等。が踏む中央部を残してそのまわりをほとんどたち落として,後補の台座に嵌め込んでい-266-
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