鹿島美術研究 年報第7号
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たち全て_その多くの名は失われているー~に関し,その個性を明らかにすることen Zurbaran en el III centenario de sumnerte, Madrid, 1964.)。その際ペマンは,ス1957., Cesar Peman;'Juan de Zurbaran,'Archivo espafiol de arte 34, 1961. etc,), Diaz;'Barnabe de Ayala, pintor,'Archivo hispalense 62, 1972,), さらに詳細は未だこうした状況に対し,セサル・ペマンは前述の大規模なスルバラン展のカタログにおいて,作品帰属の問題に関し,巨匠自身の作品を他から明確に「隔離する(aislar)」ことの必要性を強く主張した(CesarPeman;'Eltaller y los disciplos de Zurbaran, ルバランエ房および弟子たちの問題に関し,さらなる史料調査,あるいは弟子たち自身の作品の発見を通して,個々の弟子の芸術的個性を明らかにすること,これによる作品の判定,鑑別を重要な課題として提起している。同様のことはソーリア,ギナールらも説くところであり,そのための努力は今日に至るまで継続されている。スルバランの息子で,夭逝したものの,工房の重要な構成員であったファン・デ・スルバランに対する研究(MariaLuisa Caturla; Don Juan de Zurbaran, Madrid, スルバランの重要な弟子の1人,ベルナベー・デ・アヤラに関する研究(JoseHernandez 申請者の知るところではないが,これまで知られなかったスルバランの弟子の1人に関する研究が近く博士論文としてセビーリャ大学に提出されるという。しかしながら個々の弟子に関する研究は,我々の基本的な知見を広める上で不可欠なものであるとはいえ,スルバランとその工房の広範な活動を理解する上で,必ずしも有効な方法とはいえないように思われる。スルバランエ房の起源は,概ね1626年ごろのこととされているが,その活動が頂点に達した1630年代から1640年代にかけては,この工房から大量の作品がセビーリャおよびその周辺諸都市,さらには新大陸に向けて供給された。この大工房を支えたは不可能に近い。また,それ以前のより本質的な問題として,スルバラン自身の作品を他から「隔離する」といった問題意識のあり方が,どれほどスルバラン個有の歴史的現実にそぐうのかという疑問も湧く。スルバラン研究が活発化した戦後しばらくはまた,その作品の美術市場における価格が急速に上昇した時期でもあり,その事実は,カトゥルラのような研究者もときに誇らしく報告している。もとよりこうしたことは学術研究に直接かかわるものではない。しかし,戦後のスルバラン研究において,画家スルバラン個人の存在は,長期にわたる否定的評価の反動として,また,おそらくは美術市場や収集家の要求も相まっ-25 -

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