鹿島美術研究 年報第7号
43/312

族的」な性格である。工房は基本的に,地縁,血縁を軸として構成され,また同業組合も,婚姻等による姻威関係がはりめぐらされた非常に閉鎖的な社会であった。他方,当時のスペインにおける芸術家の地位が,他の一般の職人と多く変わらないものであったことは,既によく知られているが,これらのことは,工房内での共同作業が,極めて緊密で無名性の強い職人作業的な分業であったことを多分にうかかわせる。とりわけエストレマドゥーラ地方の寒村フェンテ・デ・カントスに商人の息子として生まれ,ペドロ・ディ・アス・デ・ビリァフエーズという当時のセビーリャにおいても無名の一―—即ち地位の低いー一画家のもとで徒弟修業を積んだスルバランは,おそらくは職人的性格の強い典型的なセビーリャの画家であったと思われる。本研究においては,このようなスペイン個有の問題をより詳細に調査し,これまで系統的な研究のなされることのなかったスルバラン工房の組織と運営の理解に結びつけるとともに,他のヨーロッパ諸国の状況との比較等を通して,スルバランの活動を,より大きな文脈から問い直したいと考えている。ている。そこにうかがえる一般的な傾向は,歴史的な文脈により忠実な形でスルバランを深く捉え直そうとする態度である。プラウンは,スルバランがグァダルーペのヒエロニムス会修道院のために制作した一連の作品について綿密な研究を行い,その作品のあらわす理念が,注文者である当時の修道院の要求といかに密接にかかわっていたのかを明らかにした(JonathanBrown; レーラは,昨年プラドで開かれた大規模なスルバラン展のカタログに論文を寄せ,スルバラン様の新大陸への影響を,当時の美術品売買の商業的側面も視野において論じている(JuanMiguel Serrera;'Zurbaran y America,'en Cata.logo de exhibici6n, でもっていた意味を明らかにしようとするものであるとすれば,後者は,画家スルバランの活動を同時代の社会の枠組みのなかで理解しようとするものであるといってよい。とりわけ後者の問題については,セビーリャ派一般に関する再評価ともからんで近年脚光を浴びる領域であり,ダンカン・キンカッドらの研究者は,17世紀セビーリャの絵画市場,新大陸との作品取引について精力的な研究を続けている(DnncanT. 1960年代の後半以降,若干の停滞期に入ったスルバラン研究は,近年再び活発化しImages and Ideas in the 17th Century Spanish Painting, Princeton, 1978.)。一方セZurbaran, Museo del Prado, 1988.)。前者が,スルバラン作品が同時代の状況のなかKinkead;'Artistic trade between Seville and the New World in the Mid-17th -27 -

元のページ  ../index.html#43

このブックを見る