鹿島美術研究 年報第7号
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1983年リスボンで行なわれた「ポルトガルの発見とルネサンスのヨーロッパ」展において,南蛮漆器に関わるさまざまなインド・ポルトガル様式のものが出品され,南蛮美術研究者の目を奪ったが,その後も聖寵をはじめ,続々と発見される一群の輸出漆器の出現は,南蛮漆器の中でも,キリスト教関係漆芸品,輸出漆器の総括的な検討・整理を要求しているし,またその研究を可能にする資料が揃ってきたともいえる。この研究によって浮かび上る日本とポルトガル(ゴア・マラッカ・マカオルート)の交流の様子は,徳川時代の禁教令によって破棄された日本とポルトガルの交流の実態を逆照射することになるだろう。⑰ 鎌倉地方における観音半珈像の成立と展開研究者:鎌倉市立鎌倉国宝館学芸員浅見龍介研究目的.. 鎌倉地方は,12世紀末源頼朝が幕府を開いて以来,鎌倉公方が実力を保持した14,5世紀頃まで,政治,文化の一方の中心であった。その文化を概観すれば,12世紀末から13世紀半ばまでを京都文化摂取の時代,13世紀半ば以降14世紀までを中国宋,元との交流を通じた宋風(宋元風)文化摂取の時代とすることができる。後者が鎌倉独自の展開を示した時代であり,宋風の影響も,伽藍,建築,絵画,工芸等全ての分野にわたっている。“宋風”は,13世紀初頭から京都に於て受容されていたが,大陸との直接的な交流により,鎌倉地方にあらわれる“宋風”はその度合いが一層進み,他地域に見られない際立った特色を持つ。彫刻に於ては,例えば土紋装飾,法衣垂下,観音半珈像などである。しかし,“宋風”は技法,形式,作風について個々にとりあげられるのみで,その実体はほとんど明らかにされていない。まず,観音半珈像について宋風受容の過程を解明し,宋風研究の第一歩としたい。また,観音半珈像は,禅と華厳の融合によって生まれた像であるから造像の広がりは即ち一つの思想(信仰)の広がりを示すものと考えられる。鎌倉地方の諸宗派の思想的交流を考えることは,檀越である武士の信仰を考える上で重要であり,この思想の影響を少なからず受けたと思われる後世の禅宗周辺の文化,日本人の精神を考えるためにも意義のあることと思われる。-44 -

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