鹿島美術研究 年報第7号
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1.美術に関する調査・研究の助成① 日本のシュルレアリスム絵画におけるマックス・エルンストの影響研究者:姫路市立美術館学芸員速水研究報日本近代洋画の展開は,西洋絵画の様々な表現様式の受容によって特徴づけられるが,シュルレアリスムに関しては特に,その作品の様式上の性格が本来明確ではないため,その受容に関しても曖昧な形で論じられることが多かったように思われる。日本におけるシュルレアリスム的表現の受容のあり方を明確に理解するには,より個別的,具体的に影響関係を指摘することが必要であろう。本研究では,シュルレアリスムの代表的な画家であり,日本の面家に対する影聾が特に大きい画家の1人であるマックス・エルンストを特に採り上げ,彼の作品が日本の画家たちにおよぼした影孵をできる限り具体的な資料に基づき調査した。不十分ではあるが,以下にその成果を報告する。影聾関係を調べるには,まず日本の画家たちが,いつ,どのような形でエルンストの作品を知りえたかが問題となる。日本の画家の中で最も早くエルンストの存在を知った1人としては村山知義が挙げられる。大正13年アクション第2回展を批判した有名な一文「アクションの諸君に苦言を呈する」(「みづゑ」大正13年6月号)の中で,彼は一部の出品作品を指して「誰だか名は忘れたが,チリコやエルンストの機械人形を借りて来た人もある」と述べている。村山は1922年にベルリンやデュッセルドフで行われた展覧会でエルンストの作品を見ていたであろうし,デ・キリコとともに名を挙げていることや「機械人形」という表現から考えれば,ェルンストがデ・キリコの影騨下で制作したリトグラフ集「流行に栄えあれ」を見ていたかもしれない。しかし,村山が見たエルンストはおそらくデ・キリコの追随者としてのエルンスト,ダダイストの1人としてのエルンストであり,その存在が重視されていたとは言い難い。また,エルンストが日本において全く紹介されていなかった当時,この村山の一文を読んだ日本の読者にとっても,エルンストの名は聞き覚えのないものであったろう。大正15に仲田定之助がフランツ・ロウの著「後期表現主義」を紹介した記事にもエルンストの名が出てくるが(「中央美術」6月号),ここでも事情は村山の場合と同じであったと推測される。-61 _

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