鹿島美術研究 年報第7号
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エルンストが日本の画家たちに重要な画家として認識され始めるのは昭和に入ってからであり,シュルレアリスムの日本への紹介に伴って,その代表的な画家としてエルンストの名が知られるようになるのがそのきっかけであろう。本国フランスにおいてもシュルレアリスム絵画というものの存在が知られるようになるのはブルトンの第1宣言の翌年の1925年11月パリのピエール画廊で最初のシュルレアリスム展が開かれて以後のことで,ェルンストやミロ,マッソンなど一群の画家の作品が注目され始めるのもこの頃からである。ここで興味深いのは当時滞仏中の福沢一郎と森田多里がこの最初のシュルレアリスム展を見ていることである。後に森口多里ヵ噌『いた「Mondialismeの時代-1弗蘭西現代画壇雑感_」「アトリエ」昭和3年9月号)という記事では,シュルレアリスムやその画家たちへの言及こそないが,そこで挿図として使われているアルプやエルンスト,デ・キリコなどの図版は,明らかにこの最初のシュルレアリスム展のカタログから転載されたものである。そしてここに掲載されたエルンストの「若い女の首」という作品はエルンストの作品や日本の美術雑誌で紹介された最も早い一例といえる。この森口の論文が掲載された昭和3年頃から,シュルレアリスムに関心を持つ文学者の間でエルンストの存在が注目され始めたようである。それを端的に示すのが文芸誌「山繭」(昭和3年3月号)に訳出され,エルンストの1点のコラージュ作品とともに掲載されたフランツ・ロウの1927年の論文「エルンストと接合的絵画」であり,また昭和4年4月の「中央美術」に北園克衛が書いた「白の癒類MaxErnstへの美学説」である(「中央美術」のこの号にはエルンストの作品4点が掲載された)。これら文学者や,おそらく一部の画家たちは「カイエ・ダール」などの美術雑誌や「シュルレアリスム革命」誌,そして刊行されたばかりのブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」をいちはやく手に入れ,その掲載図版からエルンストの作品を知ったのである。昭和4年の「詩と詩論」第5冊にはエルンストのコラージュが6点掲載されたのを始め,翌年の「アトリエ超現実主義研究号」では4点のエルンスト作品が掲載され,そして昭和5年瀧口修造の訳により刊行された「超現実主義と絵画」では50点の収録図版のうち,ェルンストの作品は7点含まれていた。ここで重要なのは,当時渡欧の経験がなかった日本の画家の場合,これらの本に掲載されていた必ずしも質のよくない図版によってしかエルンストの作品を知ることができなかったということである。特にエルンストの作品の場合,画面のイメージや形態の特徴はある程度理解できたとし-62 -

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