Musee national d'Art moderne", 11, 1983, p.138.),椅子に座る人物が奇妙に組み合ても,彼特有の技法,コラージュやフロッタージュ,グラッタージュを明確に把握することは難しかったと思われる。このことは日本の画家たちのエルンスト理解に初めのうち少なからず影聾をおよぱしたのではないだろうか。日本にいた画家がエルンストの作品に初めて直接触れたのは昭和7年になってからのことであった。しかし,エルンスト的な作品世界はそれ以前に福沢一郎の作品を通して生々しく日本の画家に伝わったかも知れない。福沢一郎が昭和6年の独立美術協会展第1回展に出品した滞欧作が,デ・キリコやエルンストの強い影繹の下に制作されたものであることはよく知られているが,福沢に最も影響を与えたのはエルンストが1929年に発表したコラージュ・ロマン「百頭女」ではないかと思われる。例えばこの展覧会に出品された「無敵の力」(群馬県立近代美術館蔵)については,ヴェラ・リナルトヴァがエルンストの1922年の作品「友人たちの集い」(ケルン,ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵」の影糊を指摘しているが('Lapeinture surrealiste du Japon'," Cahiers du わされたこのイメージは,「百頭女」第3章のコラージュの1点(エルンスト作品総目録汲1464)から写し取ったものである。また,福沢の「嘘発見器」(群馬県立近代美術館蔵」に描かれた人物のシルエットは「百頭女」第7章の1点(汲1520)に出てくる奇妙な人物像から発想されたものと思われる。その他,福沢のこの当時の作品に見られるイメージの組み合わせにはエルンストのこのコラージュ集の方法を応用したものが幾つか見うけられる。例えば昭和6年の福沢の作品「教授たちー一舌ぎ議でほかのことを考えている」に見られる,椅子の背にイメージを嵌め込む方法は,エルンストがやはり「百頭女」の1点(芯1468)で行っているものである。こうした福沢の作品が当時の日本の若い画家たちに与えた影聾は大きく,彼らはいわば福沢の作品をきっかけにエルンスト的な絵画表現を知ったといえるかも知れない。例えばそうした影開を最も強く受けた1人に飯田操朗がいる。彼が描いた現在所在不明の素描の1点(「飯田操朗素描集」櫨馬社,昭和13年,図版4)は明らかにエルンストの1927年の油彩「接吻」(ヴェネツィア,ペギー・グッゲンハイム蔵)の人物の形態を写し取ったものである。エルンストのこの油彩は早くから「シュルレアリスム革命」誌(第11号)や「カイエ・ダール」誌(1928年第3号)に掲載されていたから,飯田はこれらの雑誌か,あるいはそこから日本の書物に転載された図版を見て興味を持ち,その形態を写し取ったものであろう。紐をたらして偶然的に出来た形を利用するエル-63 -
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