115号,『東洋絵画叢誌』9集,『太田盛衰記』など),この団扇絵は今も残っている(高共機関・各コレクター所蔵の雪村の常陸時代に関係のありそうな作品の調査を実施した。佐竹氏と雪村との関連については,従来佐竹氏の内の誰が雪村であり父であるかの論究が行われたが(『大宮町史』,亀田孜氏『雪打』,赤沢氏前掲論文),あまり成果が得られたとは言い難い。そこで今回は,佐竹氏一族の時代と地域の広がりの中で,雪村の位置付けをその作品も含めて検討してみた。そして系図,文献,及びこれと初期作品と目される作品との関連を調査した結果,次のような興味ある一連の事項を得ることができた。即ち雪村より約一世紀前の佐竹氏十三代の義仁(人)は,正宗寺の近くの耕山寺を応永年間に中興するが,この義仁は画をよくし,鎌倉八幡の尊影を写し(『佐竹寺本佐竹大系纂』),戯れに花鳥や鶉絵を画き写して楽しんだ(『画工便覧』)人であった。ここでとくに花鳥や鶉絵に注目するなら,義仁の画は恐らく中国院体画様式の作品と想像することができる。義仁はもともと上杉憲定の子で鎌倉に居た人で,佐竹義盛の女を緊り常陸に入っている。その後も鎌倉には度々赴き,『仏日庵公物目録』にすでに散見される院体花鳥画には通じていたと思われる。そして義仁によって耕山寺周辺にもたらされた院体画様式は,約半世紀遅れて,同じ耕山寺の僧性安によっても画かれた(栃木県立博物館蔵「蟹図」)。性安は祥啓の弟子でもあり(『丹青若木集』),この院体画様式は祥啓より習った可能性もあるが,何れにせよ性安の作画の基盤には義仁がいたわけである。更に性安より少し遅れた雪村もこの耕山寺に関連をもった。雪村には耕山寺で団扇絵を画いた伝説があり(『常陸国北郡里程間数之記』,『絵画叢誌』和金三郎氏蔵「芦鷺図」)。残念ながらこれは院体画様式でないが,しかし正宗寺の「滝見観音図」と同印の初期作品にある「雪村」朱文方印を有する花鳥画,例えば「葛花・竹に蟹図」(群馬県立近代美術館蔵),近年見い出されたこれと一連の「猫に薔薇図」(薮本荘五郎氏蔵)は明らかに中国院体画様式である。そうとするなら,雪村の初期作品の内の少なくとも院体画様式の花鳥画は,すでに佐竹義仁以来の伝統をもち,性安を経た耕山寺周辺での習画の成果ということができると思われる。もちろん鎌倉からの刺激は絶えずあったにせよ,常陸での雪村は,正宗寺文化の中での修業とともに,耕山寺の院体花鳥画様式の伝統(院体画は単なる一例かも知れないが)の中で習画したことが推定できるわけである。佐竹氏と雪村との関係では,とくに天文十五年に神馬図を奉納した今宮玉殿(谷文-67
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