麗『画学叢書』)を,今宮別当佐竹永義の白羽明神(現・常陸太田市)とした赤沢英—2.「説門弟資云」について氏の説(国華前掲論文)が注目に値する。赤沢氏はあまり触れられなかったが,今宮佐竹氏は,当時の修験者の中心,即ち修験の印可状を与える立場に位置し,そうとするならここで雪村と修験との関係をも想像させるからである。雪村が何故会津・三春に赴いたかの一つの推測として,常陸から北方へ延長する八溝山系の修験の道を,恐らくは体制外的な自由な通路が想定でき,また修験との交わりによって,雪村が何故「呂洞賓」や「琴高仙人」など神仙的画題を好んだかということも,これによって一層理解しやすくなる。しかしこれの実証のためには更に歴史学的・民俗学的な検討も必要となろう。なおこれら一連の調査の過程で,残念ながら耕山寺には何も関連資料が残されていないことが判明したが,正宗寺で官南の屏風「西園雅集・飲中八仙図」(もと八曲一双,改装修理後六曲一双)が新たに発見されたことは大きな収穫であった。官南は雪村とほぼ同時代の画人で,金玉倦という朝鮮画系らしい名があること,本屏風も朝鮮屏風の形式をとっていること,雪村と同じく小田原の北条氏政と関係があること,また画備考』には「常陽」の朱文瓢印が掲載され如何にも常陸と関係がありそうなことなど,雪村画の朝鮮画からの影響の問題も含め,この屏風の発見には,実にさまざまな興味ある課題を提起しているからである。天文十一年,雪村は部(辺)垂で「説門弟資云」を著した。この雪村の画論は,その個性を際立たせた内容と,流麗な文体でもって,日本の絵画史の中でも実に特異な位置を占めているといってよい。またこの画論は,『酒井抱ー記録』,『文昆画談』,菅原洞斎編『画師姓名冠字類紗』に収録されるが,とくに『抱ー記録』の前文(国華65号所収)にある発見の経過については不可思議なものがある。そこで本調査研究では「説門弟資云」の発見の経過についても実際にこれの道程を跡り,併せてこれの背景についても考察してみた。「説門弟資云」の前文によれば,常陸の磯の浜の隣大貫村に住む等周子なる画家が,路程山漢を越えて十六里半ほどある鷲子山の麓の田面にある一つの家で雪村のこの画論を発見し,所有者の老婆を何とか宥めて書写した経緯が記されている。確かに現在も大貫は磯浜の隣に現存し,跨子山神社への中間に丁度部垂が位置することを考えるなら,このような偶然が実際にあったとしても不思議ではない。たとえこの前文に作為的な粉飾が感じられたにせよ,実際にあったとする可能性-68 -
元のページ ../index.html#92