鹿島美術研究 年報第7号
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を検討すべきだろう。まず等周なる画家だが,『古画備考』によれば桜井山興門人の飯塚等周(文里と称し野州佐野郷)と長谷川等周があげられる。この内長谷川等周は等伯の子とされるから論外として,それならば「説門弟資云」を発見したのは飯塚等周であろうか。しかし飯塚等周は野州の出身で大貫の人ではない。また茨城県の県南の不動院の天井画の龍図(板地著色)には,「雪谷」の瓢印,「等周法眼」の朱文方印,文化十四年の年紀が付されている。この等周は恐らく雲谷派の等叔の子の等周(1758-1822)と思われる。「説門弟資云」発見の等周はこれの何れかだろうが,今回の調査の結果では飯塚等周の可能性が高い。以下その理由を簡単に記しておく。飯塚等周は江戸で桜井山興(雪館)の門人だったが,山興自身の出自は磯浜である。また等周と同じく山興の弟子の関等元も出身は磯浜であり,これらから『抱ー記録』の前文が混同したことも考えられよう。更に山興は安永五年に『画則』を出版しているが,この中で雪舟から雪村に伝わった画の法則を門人に口授すと記し,等周も前文の中で「雪村の風をしたひて画くものなり」とし,これらから等周を同一人物と考えて矛盾ないと思われる。しかしより重要な関係は,実は「説門弟資云」と『画則』の内容と文体の類似にあるだろう。例えば前者の「骨法肉法ニヲ心二止メ」と後者の「筆法ハ骨気逍潤ノニヲハナレズ」,また前者の「十画ノ中,濃墨七墨,淡墨三墨ヲ定リト思フヘシ」と後者のノ流ハ濃墨ヲ用ルコト十二八九ナリ」は内容的に類似し,言葉だけの相似では前者の「夫画道ハ諒二仙術ニテ,書卜同事ナル中,少シノ異アリ,書ハ形ナキノ形,画ハ万象アリテー以下略ー」と後者の「書卜画ト一致ナリト雖モ少ク論アリー中略一凡画家卜称スル者ハ乾坤万象ノ形状ヲ画クヲ以テ画家タル所ナリ」があげられよう。もとより桜井山興の『画則』は「説門弟資云」発見以前の著作であり,また「説門弟資云」の短文ながら含蓄の深い自在な内容に比べ,『画則』は長文でむしろリゴリスティックな法則に終始するなどの相違はある。しかしここでは『画則』のもつリゴリズムからの解放が,むしろ「説門弟資云」によって果たされた可能性を考えてもよいかもしれない。「説門弟資云」に係わった人たち,谷文昆,酒井抱ー,菅原洞斎の文化・文政期の粋人たち,そしてこれに雪村伝説も含めて『此君堂後素談』を著した水戸藩の儒者立原翠軒も情報源として参加したかもしれないが(翠軒は文晟,洞斎とは書画会などを通してとくに親しかった),彼らによる『画則』の自由な解釈によって,等周69 -

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