の68歳の時の作品まで長期にわたって作品が残され,その画風も他の画題のものに比化9年の「山水図」の特異な画風が何に由来するものかは興味深い課題であるが,今残された作品はその多くが山水図・花鳥図で,山水図が約50点,花鳥図,花丼・花木図が約25点,魚介図が3点である。その他には父玉堂の肖像として知られる「玉堂弾琴図」,「琵琶行図」のような詩意図,陶淵明の姿を描く「陶翁帰去図」,さらに「白衣観音図」などがあったが,画題の傾向としては山水図の占める割合が最も大きく,作品の半数以上を占めている。このように春琴作品の中で最も多く描かれている山水図は29歳の時の作品から没年ベ変化に富んでいる。そこで今回は紙面の制限もある事から春琴の山水図を中心に制作年代順にその画風の変遷を辿ることで中間報告に変えさせていただきたい。春琴は作品の多くに年記を記しているが,中で最も早い年記を持つものが「祝松精舎図」(『文人画粋篇』所収)である。同図落款には「丁卯夏晩宿雨初齊間坐於/祝松精舎作此/春琴紀十千」とあり,文化4年(1807)春琴29歳の作品であることが知られる。同図には画譜などから学んだと思われる水波の表現や山の輪郭の取り方にやや硬いところが見られるものの,後年の春琴山水図の特徴はほぼ出揃っているようである。またこの年は江戸から京に戻り,その後前年に続いて西遊し,さらに池大雅旧蔵の李楚白『山水帖』を得るなど春琴にとって実りの多い年であった。次に早い作品は「壬申初夏窺平安寓居/春琴居士選」の落款を持つ「山水図」で,文化9年(1812)34歳の時の作品である。「祝松精舎図」との間には5年の開きがあるが,両図は大きく作風が異なっている。「祝松精舎図」が春琴山水図の典型的な特徴である温和な筆致と端麗な彩色を示すのに対して,文化9年の「山水図」は速度感のある強い筆致で険峻な山や圭角的な岩が描かれ,墨色のコントラストも強く緊張感のある画面となっている。また,年記はないものの文化9年の「山水図」に非常に近い作風の「山水図」があり,ほぼ同時期の制作になるものと思われる。「祝松精舎図」に見られた画風が後に春琴画の典型的スタイルとなっていくのであるが,文化9年の「山水図」は「祝松精舎図」とは今く異なる画風で描かれている。文のところ「祝松精舎図」と文化9年の「山水図」との間を結び付ける材料は未見である。しかし文化8年に京に戻るまでの長崎遊学は春琴の画風に何等かの影響を与えたであろう。春琴の長崎遊学については篠崎小竹の「春琴居士碑」等によってその事実が-72 -
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