知られるのみで,今のところ長崎での行動はまったく知り得ないが,今回の調査で長崎の景観を描いたと思われる作品を知ることができた。今後の調査でさらにこの時期の資料の発見を期したい。次に確認できる作品は6年後の「戌寅春五月作/春琴」の落款を持つ文政元年(1818)40歳の作品「待渡之図」である。同図は文化9年(1812)34歳の「山水図」から文政5年(1822)44歳の「山水図」(岡山県立博物館)までの10年間の空白を埋める貴重な作品であるとともに,頼山陽も同図中の賛文に述べているように春琴の掛幅中最大の作品である。その筆致は力強く大画面の隅々まで神経の行き届いた細やかな描写がなされ,大きな空間が破綻なく表現されており,春琴画には異色な豪放さが感じられる。また本図ではその落款書体の変化が注目される。「春琴」の「春」字は「祝松精舎図」と文化9年の「山水図」ではやや縦長に書かれ,最後の筆は「つ」字のように左へ抜ける。これに対し「待渡之図」では「春」字は一,二,三画にあたる横線が明瞭となり最後の筆は「L」字様に右へ曲がるという変化が認められるのである。文政4年(1821)43歳以前の作と確認できる春琴山水図は以上の三点に過ぎないが,文政5年以降はほぼ毎年作品を確認できる。文政5年の山水図は現在三点見ることができるが,「待渡之図」に比べ跛法・樹法が整理され清澄・静謡な優しい情趣の漂う画となっている。文政9• 10年(1826• 27)春琴48• 49歳の頃は春琴山水図の画風がほぼ確立した時期である。文政9年の「淫邦晩意図」(岡山県立博物館)・文政10年の「秋江帆影図」.「秋山訪友図」では多様な筆法が巧みに使いわけられ,この時期春琴が硬軟・太細自在に筆法を使いわける力量を身に付けつつあったことが窺える。この時期は落款の書体もほぼ定まりつつあったようである。春琴の落款は既に触れたように文政元年前後を境に変化するようであるが,文政9• 10年頃に再び変化を見せる。春琴花鳥図の代表作として知られる文政6年の「四季花鳥図屏風」(東京国立博物館)は左隻の落款が同図以前の作品と同じく崩し字の「春」字で書かれているのに対し,右隻の「春」字は明瞭な楷書体の「春」字で書かれている。楷書体「春」字の落款は文政7年の「高雄観楓図」(『文人画粋篇』所収),文政8年の「淫山高隠図」にも使われ,以後「春琴」の落款は楷書体「春」字に変化し,崩し字の「春」字は文政10年の「秋江帆影図」を最後に見られなくなる。天保元年(1830)52歳の時の作品「松的深翠図」・「競秀争流図」(静岡県立美術館)-73
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