鹿島美術研究 年報第8号
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る説(T.クラウトハイマー—ヘスやF.ヅリアーニ等)にも再考が加えられなければなら(1135年)とヴェローナのドゥオーモでの仕事(1138• 39年)の間という三•四年の十二宮の門」(クインタヴァルレによれば1114-20年),あるいは最近ニッコロにその初期作品としてアトリビューションされたピアチェンツァのサンテウフェーミア聖堂の柱頭浮き彫り(C.V.ボルンスタイン)などの問題とも合わせて,より広い視野から検討されなければならないだろう。その際さらに,ヴィリジェルモとは違いを見せていくその様式の原因の一つに,ビザンティンの象牙細工やミニアチュールの貢献を考えないであろう。これらは今後の課題として残される。次に,いわゆる「旅をするエ人」の問題に移ろう。今世紀の初めに,ヴィリジェルモやニッコロをモワサックやトゥールーズの出身とみなしたエミール・マールと,この関係を逆転させて,フランスに影聾を及ぼしたのはむしろイタリア側から赴いた彫刻家たちであるとしたキングスレー・ポーターの有名な論争以来,研究者の間で最も論議をよんでいるテーマの一つのようである。近年においても,例えばニッコロについて,サルヴィーニはトゥールーズやハカへの,ゴーゼプルフはアルルやサン・ドニヘの,コケッティ・プラテージもサン・ドニへの旅行を仮説している。しかもこれらの旅行は,ニッコロのフェルラーラでの仕事間隙にすら狭まれているのである。特に,後者の正面の扉口の隅切りに立つ柱の彫像たちは,サン・ドニ聖堂の新しい人像柱(スタテュ・コロンヌ)を見てきた結果であるとすら主張される(ゴーゼプルフやコケッティ・プラテージ)。しかし,このような旅と影聾というトポスには,少なからず疑問の余地が残る。いったい,新しい革新的成果をその眼で見て研究するために,当時のエ人たちは,いかに巡礼路が栄えていたとは言え,何千キロメートルもの困難な旅を好んでしたのであろうか。研究旅行とは言わずとも,旅先で当地の工房の仕事にニ・三年参加して,そこで仕入れた新しい情報を携えてまた里帰りしてくるということが,本当にあったのだろうか。これに対して,こうした旅のロマンスを打破しようとする研究者たちがいる。旅を媒介にした情報伝達のモデルにいちはやく疑問を投け掛けたクインタヴァルレは,同時代性は,由来とか直接的接触とかによるものではなくて,共通の,あるいは類似した社会的・文化的前提(特に彼はグレゴリアン・リフォームの原動力を強調する)によるものであると述べる。また,ザウワーレンダーは,ヴィリジェルモの様式につい-76 -

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