鹿島美術研究 年報第8号
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あるいは世界観の表出としてではなく,画面上の景物の布置の問題,つまり構図法として採用,流用した結果,斜め構成が画面の形式を越えて多用されることになるのである。そして,そこに生み出されるのはあくまでも合理的な空間意識としての遠近感ではなく,画面の上での景と景の区別,対置であった。したがって,元信における「辺角」的構図法の影閻は,絵巻物にまで及んでいるということができるのである。②について絵巻物における正面観の使用も信貰山縁起絵巻,華厳縁起などの先行作例の建築表現にすでに認められる。しかし,建築表現における正面観が背後への深まりをさほど感じさせないのに対して,釈迦堂緑起の場合は,正面観は結珈践坐する釈迦およびその周囲の表現に用いられ,そこでは,土域や霰の表現により水流が画面の奥から流れ出てくるように感じられる。そしてこの画面が自然な奥行き感を生み出している要因は,釈迦の背後にまわり,水流の上流部分を覆い隠している殴である。つまり,霰によって隠されている上流部分の位置が,釈迦に向けられた視点の位置と相互に矛盾しないために,前景(釈迦)と背景(水流)との関係が合理性をもって鑑貨者の眼に入ってくるのである。ある景物の背後に回り込むようなかたちで重ね合わせにより前後関係を表現する例は,絵巻物においても早い時期にすでに指摘することができる。しかし,釈迦堂縁起のように鑑質者の視点の位置あるいはその統一性を考慮にいれた奥行き表現は他に例がない。一方,このような表現の例として,元信の筆になる襖絵を指摘することができる。画面の特性をいかした構成になっており,そこでは襖に対する鑑質者の視点の位置が重要な役割を果たしていた。つまり,鑑質者のほぼ眼の高さにあたる位置に画面に描かれる空間の水平線を設定することにより,鑑質者には自然な奥行きが感じられるのである。このような構成は,花鳥図襖絵の東面,禅宗祖師図南面において背後への空間のひろがりとして意識されるが,一方,禅宗祖師図東面では,水平線の設定ではなく,水平線の部分を霞で覆い隠すことにより,水が画面の奥から流れてくるような印象を鑑賞者に与える。この部分の構図が,左右反転すると釈迦堂縁起の苦行中の釈迦を猫いた場面の構図と土域の重なり具合などほとんど一致することは興味深い。と考えられる大徳寺大仙院の花鳥図,禅宗祖師図襖絵はいずれも襖絵という-81 -

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