④ 大画面作品にみる土佐光吉研究者:神奈川県立博物館研究報土佐光吉の生涯について,土佐家関係資料はそろって天文八年(1539)から七十五年の生涯を伝えている。これを認めるとすると,彼の二十歳代は土佐光茂の晩年,未だ宮延絵所預として活躍していた時期で,その訓導を受けたことは十分に考えられる。しかし三十一歳の時,跡継ぎの光元が戦死,その後四十年間の土佐家の命運は光吉の双肩にかけられたと云われる。一方,狩野派は光吉二十一歳の時,元信が没し,三十〜五十歳代は永徳ほか狩野一門の絶頂期であり,続く狩野光信・山楽の活躍期に晩年の十数年間を送ったことになる。いうなれば光吉は室町末期から桃山前後期にかけて,絵画史の中でも最も高揚した時代をつぶさにみてきた,画坦の生き証人とも言えるだろう。しかし,ここで考慮しなければならぬのは,従来,土佐家の命運を託された玄二(源二),そして久翌,光吉の三者をすべて同一人としてきたことに対し,近時の研究により玄二と久翌が別人である可能性も芽生えてきたことである。となれば玄二を名乗ったと云われてきた久翌の前半生は不明となってしまうのだが,それでは後半生に久翌自身が果して光吉と名乗ったのかも,同時代の史料,実作品からは確認できないのである。光吉の伝記も洗い直しが必要であるが,本報告ではひとまず久翌と光吉については同一人とする前提で話を進めたい。これまで光吉の作品といえば,小画面の細画作品一京都国立博物館本「源氏物語画帖」・和泉市久保惣記念美術館本「源氏物語色紙絵」などーに焦点が当てられがちだったのは,これらか「土佐久翌」印をもつ光吉の最も確実な作品であったからに他ならない。だからといって光吉の真骨頂を細画作品のみに求めることも偏向しており,画坦の趨勢からすれば,彼の大画面作品の検討は不可欠の作業であろう。光吉関係の文献や実作品からも,その領域に筆をふるったことは明らかである。ただし,その大画面作品(屏風作品が主だが)には款印が付されたものは未だ見出されておらず,基準作である先の二つの源氏画帖との比較から判断するしかない。中でもメトロボリタン美術館本やバーク・コレクション本などの源氏物語障屏類は光吉作品に比定して大過ないものであろうが,さらに周辺作も加えると決して僅少とは言えず,光吉様式による大画面作品が画檀に確として存在していたことは認めなくてはならない。よって本報告では光吉様式を持つ大画面作例に焦点をあててみたいが,国内の作品相澤正彦-83 -
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