鹿島美術研究 年報第8号
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見出されていないようであるが,光吉の個人様式が大和絵様式の一つとしてH會炎していたことを窺わせる点で意義ある作例である。以上,三種の作品から光支の大画面作品を①光吉作②光吉工房作もしくは周辺画人作③光吉様式模倣作、という枠組で一瞥してみた。現存する光吉の大画面作例は金地彩色の物語絵のみという限界はあるが,その様式は光茂・光元時代の土佐派様式を直接に継承したものではなく,むしろ狩野派によって確立された桃山様式に気脈を通じるものがある。これは画帖作品の様式にも言えることだが,それではこれ以前に光吉がいかなる画風で描いていたかは今後の大きな問題である。その上,この光吉様式の大画面が現われてくる時期と土佐家肖像画の中で久翌系の作例が現われてくる(天正年間と言われる)時期が,ほぼ同時代であることは,光吉の作画活動を考える上で示唆的であろう。そして,この光吉様式は他の民間の絵師たちにも大和絵の一規範として受け取られていたことは,彼の画壇における相応の位置を窺わせる。その工房の実体についてはこれからの研究を待つしかないが,二つの面帖を比べてみても,光吉の描いた部分はいずれも晩年のものにもかかわらず彩色などにおいて,画趣が異なるのである。貴人の描写は両者ともほぼ共通しているが,松樹の形態などは数手に分けられ,広い意味では,この二つの画帖自体,工房作とも言えるのである。ただし,光吉工房といっても光吉描く所の桃山の気宇を伝える揺線と,光則や長二郎などの堅く神経質な線とは全く趣を異にしていることは確かである。これまで同じ細画という画体の共通点のみによって光吉,光則をひとくくりにして論じる傾向があったが,両者の資質は全くと言っていいほど別なものであり,これは前者が桃山的,後者が江戸的といえるほどの大きな差である。光信,光茂,光吉,光則はまさにそれぞれが異なった個性を持っていたといっても過言ではない。この意味では土佐家は家系のみならず画系も混乱していたことをあらためて確認しておきたい。86 -

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