⑤ 酒井抱ーにおける光琳画の継承と展開研究者:実践女子大学文学部助教授仲町啓研究報告:近年再発見された抱一筆「風神雷神図屏風」(国華1139号紹介)と「八橋図屏風」(出光美術館蔵)は,抱ーによる光琳画の継承と展開を考察するに当たって非常に貴重な資料を提供することとなった。両屏風は単に抱ーによる本格的な光琳画の模写というだけでなく,両図の模写はまさに抱ーの代表作の制作時期とも一致しているため,抱ーの画風形成にも重要な影聾を及ぼしていることが予想されるからである。本研究は抱ーの代表作「夏秋草図屏風」(東博)や「月に秋草図屏風」に集約される抱ーの絵画世界の形成にとって,光琳画の顕彰及びその模写の体験がどのような影靱を及ぼしているかという点に若干の考察を試みてみた。そこには元禄年間後半から宝永,正徳年間にかけ伝統的な都京都で活躍した尾形光琳(1658-1716)の画風を,化政期の江戸で酒井抱ー(1761■1828)がいかに解釈発展させたかという文化史的にも興味深い問題が潜んでいる。抱ーが本格的に光琳顕彰に落手したのは京都の小西方守に尾形家の系図などを問い合わせた文化四年(1807,47歳)頃からであったと推定される。その後一枚摺の『緒方流略印譜』(癸酉冬の自跛)が刊行される文化十年(あるいは翌年初め)から光琳百年忌の大々的な催しが執り行われる文化十二年をひとつのピークに,抱ーは光琳を初めとした琳派の画家の伝記資料の収集及びその画風の研究に努めた。幕府御用絵師の住吉家に光琳画等の琳派作品の鑑定を依頼したのもその一環であったと思われる。『住吉家古画留帖』(東京芸術大学蔵)によると,抱ーは文化八年以来たびたび琳派作品を住吉家に持ち込んでいる。ただし抱ーの琳派の画家に対する知識は時には住吉家の当主のそれを上回るものがあり,また作品鑑定に関しても独自な一見識を持っていた抱ーは,住吉家の判定に必ずしも盲従していたわけではなかった。当時の江戸においてほとんど独力で京都で生まれ育った琳派の作風を顕彰し,その画家たちに関する知識を集めることにはかなりの困難が予想されるが,抱ーが経済的時間的余裕に恵まれていたことは,貴族的でかつ贅沢な琳派画風の顕彰にとって幸いしたと言わねばならない。抱ー以前の江戸の琳派と言えば,享保十六年(1731)に江に移り住んだ光琳の弟乾山(1663-1743)の絵画と陶器,乾山に学んだという何閉(生没年不詳),あるいは宝暦年間後半から明和,安永期(1760年代から70年代)にかけて作家活動をした俵屋宗理などがいる。また大坂の画家中村芳中が抱ーに先駆け-87-
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