和二年(1802)に江戸で美麗な彩色版画の『光琳画譜』を出版している。こうした先人に導かれつつも,抱ーの琳派顕彰はより総合的かつ本格的であって,芸術的にも遥かに実り豊かなものへと発展して行った。抱ーは琳派と並んで同じく京文化の中で生まれた円山四条派の絵画あるいは若沖画などの影響も受けていたことが近年指摘されている。江戸に下向した渡辺南岳(文化十年没,47歳)とは個人的にも知己であったらしく,当時江戸に移植されつつあった円山四条派の洗礼を抱ーも免れなかったといえよう。殊に円山四条風は晩年の草花図にまでその痕跡を残し(むしろ晩年になって顕著になるとも言える),彼の絵画世界の形成にとってもかなり重要なウェイトを占めていたようである。ただし金銀地の装飾的な大画面画の造形に決定的な影響を与えたのはなんと言っても光琳そして琳派の造形であったといわなければならない。文化十二年(1815)六月二日の光琳百年忌には,抱ーは光琳画百幅を展覧する雅会を催すとともに,自らも百幅の絵を制作して好事家に配り,『光琳百図』と『尾形流略印譜』を刊行する予定にしていた。所期の予定はやや縮小されたものの,光琳百年忌は抱ーの手によって大々的に催された。百幅には満たなかったが多くの光琳画が展覧され,「光琳忌百幅之ー」朱文重郭方印の捺された絹絵が配られた。『尾形流略印譜』の刊行も間に合ったようである。同印譜は自作の「観音図」(妙顕寺蔵)とともに,忌日に光琳の菩提寺京都妙顕寺本行院に奉納されたもようである。ただ『光琳百図』は難航したらしく,刊行されたのは翌年以降であったらしい。『光琳百図』に納められた光琳画は,物語図,故事人物図,花鳥図などの掛幅画が多く,屏風絵殊に光琳風の大画面構成の見られる作品には乏しい。掛幅画には光琳が江戸在住期に描いたと思われるものもあり,「喫図」,「紫式部図」,「寒山拾得図」など今日光琳真筆の存在が確かめられる作も含まれている。そのうち「楔図」は住吉家では「一向贋物」の鑑定を受けたにもかかわらず,抱ーは『光琳百図』に載せたばかりか,「光琳忌百幅之ー」にも加え(ただし写真でみる限り抱ーの光琳模の「喫図」はけっして上出来とは言えないようである),自らの鑑定に自信のほどを見せている。いっぼう屏風絵では「波濤図」「三十六歌仙図」「定家詠十ニヶ月花鳥図」(押絵貼)「白競図」(押絵貼)「紅白梅図」「松に鴫図」(小屏風)そして「岩に鴨図」襖がある。そのうち最も注目されるのは「波濤図」で,同図の原画は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵され,抱ーの同図に触発された銀地六曲一双屏風(静嘉堂文庫-88-
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