鹿島美術研究 年報第8号
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蔵)も伝えられている。抱ー画はおおらかな雰囲気のする作品ではあるが,コンパクトな二曲屏風を六曲に拡大したため,やや構図が散漫で,後の抱ーの真骨頂が窺える作品にはかなり及ばない出来となっており,光琳画の解釈理解という点でもやや浅く,むしろ光琳とは異質な世界に変質しているとも言えよう。「三十六歌仙図」は抱ーによって同エ異曲の屏風絵や掛幅画に多数写されて行くばかりか,他の琳派の画家たちにも愛好されて行くという点では注目すべき作ではあるが,この構成が抱ーに発展的な影聾を与えたとは思われない。「紅白梅図」も二曲を六曲にした作品を抱ーは後に制作している。この段階で光琳画が抱ーにどの程度決定的な影聾を与えていたかを類推することは難しく,金銀箔と発色の良い岩絵具が作り出す華やかな装飾性に憧れながらも,少なくとも光琳画の独特の構成あるいは金地解釈には気付かないか,気付いてもほとんど興味を示していないように思われる。こうした抱ーの光琳理解は,文化十三年(1816,56歳)に制作された大作「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)に表われている。発色の良い鮮やかな色面の対照,それらと金色との反映の美しさ,季節感の表現そして何よりも見事な全体の装飾的な意匠効果という点で,同図制作の背景に抱ーの光琳体験が看取されるものの,構成構図の点では光琳画とはほとんど異質の世界といって良いほどの違いがある。同屏風は両端に心を置く伝統的な花鳥図屏風の形式を一応踏襲しなからも(この点でも光琳画とは異なる),横長画面を左右に展開する巻物のような構成をとり,土域や水流や霰などで遠近感を出すやや平凡な構成を採っている。土域や霰などの既製の道具立てを使って層状に遠近を構成するやり方は光琳画には見られないものであり,満開の四季の花の間を美しい鳥たちが飛び交うという楽園的な世界の表現も光琳とは異質である。ここで抱ーか表現する世界,その空間感覚の基礎を何処に見るべきかは今後の課題であるが,少なくとも光琳以外の(琳派以外の)伝統との接触を考慮すべきであろう。文化十四年(1817)に出された『捻村画譜』は,十五年前の芳中の『光琳画譜』を初彿とさせる豪華な彩色版画で,モチーフや没骨画法に琳派風を出した美麗な小品画集である。文化十五年には「四季花鳥図巻」(58歳,東博蔵)を制作している。これらでもまだ後年の抱ー画にみるような,草花表現の中に表層的外形的な美しさ以上のものを表わすまでには至っていない。抱ーの光琳顕彰は文政二年(1819)の光琳の墓碑建立(ただし完成は翌年三月に延びた),文政九年の『光琳百図後編』の出版と続く。その間文政六年十月には乾山の墓89

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