56歳)の「四季花烏図屏風」(陽明文庫蔵)では未だ既製の空間意識に捕われているのが坂本町善養寺にあることを知り,門前に碑を建て,同時に『乾山遺墨』の出版に取りかかった。(出版はおそらく翌年以降であったと思われる)抱ーの60歳代(文政三年〜文政十一年十一月四日没68歳)は,引続き光琳(琳派)顕彰の面でも大きな事績を残すと同時に,自らも傑作を次々に生み出し充実した晩年であった。従来この時期の年紀のある大作としては文政六年(63歳)の「十ニヶ月花図」12幅対が知られるのみであったが,昨年最高傑作のひとつ「夏秋草図屏風」(東博)の下絵(出光美術館)が見いだされ,そこに「文政四年十一月九日」の書き入れがあることから,完成画はその年暮れか翌年春ごろの制作と推定されるようになった。(出光美術館『館蔵名品選第2集』)同屏風の表に描かれている光琳の「風神雷神図屏風」(東博蔵,一橋徳川家伝来)は,文政三年十二月に住吉家の鑑定を受けており,『光琳百図』には入れられず『光琳百図後編』に入ることから,抱ーが光琳の同屏風に接したのは文政三,四年頃ではなかったかと思われる。そのほか『光琳百図後編』には,「白楽天図屏風」「八橋図屏風」「松島図屏風」「富士山図屏風」など興味深い光琳の大作屏風が納められ,およそ十年の間に接したこれらの大画面が抱ーの光琳理解(殊に大画面構成において)を深めていったことが予想される。抱ーの二大傑作「夏秋草図屏風」と「月に秋草図屏風」の成功の一因は,今までにない新しいく空間〉を獲得したことにあると言っても過言ではない。文化十三年(1816,に対して,両屏風では金地銀地を自由な造形空間として位置付け,既製の構成法に捕われない飛躍した造形を展開している。勿論それは光琳のものともかなり異なってはいるが,造形空間の処理として金銀地の構成を意識する点で光琳と問題意識を共有していると言ってもよかろう。そこに抱ーのより深められた光琳理解あるいは光琳体験が反映されていると思われる。残りの紙面が少なくなってしまったが一例として「八橋図屏風」の模写を挙げるなら,そこで抱ーが最も腐心した点のひとつにく橋〉の造形があった。特に理屈に合わない橋桁の形には相当に戸惑っている。しかし戸惑いの中に橋桁に象徴される光琳の独特の金地空間の処理に対する驚きと賛辞が含まれているのを見逃してはならない。こういう大画面の処理法は『光琳百図』の段階では思いもよらないものであった。この強烈な体験から抱ーは大いに触発されるところがあったと思われる。上記の両屏風の虚と実の間をたゆたうような不可思議な空間は抱ーの独壇場ではあるが,光琳の大画面画の空間体験を触媒として生み出されたものと考えたい。-90 -
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