らくえきへきくんもひれしんいの大袖衣を着用した作例を紹介し,インド式の着衣から中国式の済衣へと変化する状況を具体的に検証してみたい。<龍門古陽洞の大袖菩薩像〉仏教が中国に伝来した当初の仏菩薩像は,当然のことながら西方式の形態であった。しかし,やがて仏教が東漸する過程で土地土地の民族固有の文化と接触するうちに,様々な民族的要素をとり入れ,一方で西方的要素を失っていった。そして,その変化が最も急速に中国的な方向へ進行したのが5世紀末〜6世紀初頭にかけてである。それは雲岡石窟では第6窟や第16窟に,龍門石窟では古陽洞の造営が始まって間もない太和22年(498)の仏寵において,着衣形成の中国化という大きな変化をみせるのである。ここで問題とする菩薩像の着衣形式については,西方式,中国式ともにいくつかのヴァリエーションがあるので,その主なタイプをいくつか挙げて比較してみよう。〔西方式〕(A)上半身裸形で下半身に短めの布を巻きつけ,天衣を肩の上方で逆U字形にまる<ふくらませ,両肘にかけて垂下させる。(B)上半身に絡腋(左肩から右脇下へ斜めにかける幅広の布)を着け,下半身に短かめの布,肩上方に天衣を(A)と同様に着用する。※天衣は後頭部で吊り上げるように表わす場合もある(キジル・敦燈等に多く,龍門古陽洞初期にもみられる)。〔中国式〕囚上半身裸形で下半身に拮(裳)をつけ,天衣は領巾(中国の婦人が肩にかけるショール状の布)のように両肩を広くおおい,腹前で左右からX字状に交叉させ両肘(前膊)にかけて垂下させる。(B)上半身は僧祇支,下半身は拮を着け,天衣を(A)のようにまとう。(C)上半身は大袖衣,下半身は拮を培け,天衣を(A)のようにまとう。(D)大袖の上衣と下衣が一つにつながっている服(深衣のようなもの)を着て天衣を偽)のようにまとう。西方式から中国式への変化のポイントは次の点である。①絡腋がなくなる。※X字の交点に璧伏の環飾を配し,天衣や嘲塔を中に通す方式がやがて多くなる。-92-
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