鹿島美術研究 年報第8号
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4 ②僧祇支が出現する。③大袖の上衣,深衣等の漢式服制か出現する。④天衣か肩を広くおおい,腹前でX字状に交叉する。⑤下衣が短かめの布から律状(翫か広くて長い。縦状嬰をあらわす)へと変わる。漢民族の伝統的服飾を採用することにより,西方風の服飾は急激に衰退していった。この現象は衣服のみならず,蒋薩像の髪形,装身具,履きもの等にも顕著にあらわれる。中国式4タイプのI中では(A)が早く,(B)• (C) • (0)はやや遅れる。さて,古陽洞は龍門で最も早く開窟され,太和22年(498)にはすでに石窟としての工事が進行していたことかわかる。左右壁第3屈と正壁三諄は505年以前に完成,天井部も509年頃までに成り,509年頃から正光末頃までの間に第2屈,さらに第1層と順次下へ掘り進めている。この間龍l"]では賓I湯中洞をはじめとする大型窟が次々と造られている。古陽洞内に確認した大袖着装粋薩像は全部で6件9体である。集中しているのは南壁(右壁)第2J麗で,左右に並ぶ4つの大寵のうち3つの籠に造られている。また,北壁(左壁)第2.第lJ付辺の小恥,正墜の左脇侍1象下にも1寵あり,特にこの正壁らず,本研究の現地調在による新知見である)。長い間地築の壁に埋もれていたため詳細が不明であったが,近年この壁がとり除かれ全容が明らかとなった。面部は欠失しているが,交脚菩薩像を主諄とする五諄形式である。着衣は,上半身に僧祇支・大袖の上衣・天衣・胸飾.肩上に円形飾と帯状飾.I嬰塔をつける。僧祇支は胸前を左肩から右胸への斜めの線で表し,紐をしめ,結び目をつくって垂らす。胸飾は幅広い幣状で中央下縁を尖らせ,三箇所に珠状の垂飾をつける。僧祇支の上に,U字形に隊を聞ける上衣を着る。この衣は両腕部で大袖状を呈し,袖ロには中にさらに別の衣かみえる。天衣は両肩を広くおおい,両肩から垂れるf嬰塔とともに腹前でX字状に交叉し(交点に璧状環飾を配す),両前膊上にかけて外側に輪状のたるみをつくった後,再び前膊上にかけて内側より膝上に衣端をみせている。肩上には円形の飾りを戴せ,そこから2条の帯(先端に珠または鈴状飾り各3をつける)の1詑には永平2年(509)の年記が刻まれていた。(この年記はこれまで知られてお図1• 2に示した仏屈は南墜第2)村の最も入口寄りにある93 -である。

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