鹿島美術研究 年報第8号
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でX字状に交叉させ(交点に璧状環飾はない),図1• 2の像と同様に両腕外に輪状の年(565)銘像などがあり,北魏末から東西魏にかけて多く,単独像では北斉北周代まを肩前部に垂らす。下半身は拮をつける。拮は正面で,U字形の襟の下方,天衣交叉部の上方にその上端をみせ,腰帯をしめ結び目を表す。下端は両足首までをおおい,縦の襲をつくる。前述した中国式4タイプのうち(B)と(C)を合わせた形である。次に,図3は同じく南壁第2層の奥から2つ目の大寵(第2寵)の左脇侍像である。この寵は二仏並坐像を主聰とし,左右に菩薩立像各1を配す。この菩薩像は内衣・大袖衣・天衣を着し,肩上に円形飾・帯状飾をつけ,履をはく。内衣は上端を胸前に横の線で表し中央に縦に稜を立てる。大袖衣は胸前で左旺に打ち合わせ,腰帯をしめ,結び目をつくって膝前面中央に垂らす。この腰帯の辺には拮の上端が見えないので,この大袖衣は上衣と下衣が一つにつながったワンピース式の服(深衣)ではないかと思われる。裾部は足首まで深くおおい縦製をつくる。天衣は両肩を広くおおい,腹前たるみをつくって内側に垂らす。天衣右方分先端部は膝前を斜めによぎり,寵の外側へ向けてたなびくように表現される。左大袖下から蝶結びにした帯が垂れる。前述した中国式の(D)タイプと考えられる。以上のような大袖衣を着用する菩薩像は,石窟では雲岡第6窟に未発達な作例(袖が小さめで形がやや曖昧)がわずかに認められるほか,龍門では古陽洞のほかに魏字洞正壁左脇侍像,翠県石窟第1窟北壁第1寵右脇侍像,さらに天水麦積山石窟の北魏〜西魏代の塑像に頻出し,敦煽では285窟正壁両脇侍像や北壁壁画など西魏代に多い。このほか北魏正光5年(524)銘劉根等造浮図記(河南省博物館)線刻画中の菩薩像や,単独像では長安出上北魏景明2年(501)銘石造四面像(映西省博物館)中の脇侍菩薩像北魏正光6年(525)銘石造三雌仏立像(山東省博物館),河南大海寺址出土北魏孝昌元年(525)銘碑像の交脚菩薩像,東魏天平2年(535)銘三尊仏立像(藤井有郡館),大阪市立美術館山ロコレクション中の北斉天保5年(554)銘像,同北周保定5で造られている。また,日本の飛鳥時代の遺品中にもわずかに1例認められる。法隆寺献納四十八体仏中の155号像(菩薩半珈像)で,止利派と呼ばれる一群中の小金銅仏である。この像は,胸前に僧祇支の斜めの線をみせ,U字形に襟を開ける大袖の衣を着け腰帯をしめており,天衣はつけていないが,古陽洞の図1• 2の大袖像に近い。155号像はその特殊な服制に加えて,日本の7■ 8世紀の半珈像に多い思惟相(右手を頬にあてる)で-94 -

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