はなく説法相(右手を施無畏印状に挙げる)を示す点で特異な存在であるが,この服制の源が龍門石窟6世紀初葉に遡ることは,7世紀前半が活動期とされる止利派の様式が,中国の古い様式,しかも極めて中国色の強い様式を範としていることをうかがわせる。龍門での大袖像の出現は,古陽洞の第2層に集中すること(第2層は509年頃から造られた)や永平2年(509)銘像の存在から,509年を一応の目やすにして良い。また,雲岡での出現が龍門に先んずるとはいえ,雲岡では洛陽遷都以後の作例も含めて大袖菩薩像の作例は極めて少なく,かつ素朴である。一方,長安出土景明2年銘像(映西省博物館)の存在を考えれば,大袖菩薩像は洛陽遷都後まもなく長安や洛陽を中心に盛行し周辺へ及んだものと推定される。また,大袖菩薩像を南朝起源と考えることも可能(南朝の墓から大袖衣を着た天人像の塘画が発見されている)であるが,現在これを証明するに足る南朝の仏教造像資料,特に実作例が見つかっていない。また,四川省成都万仏寺出土の南朝在銘像中にも大袖菩薩像は1例も見当たらない。大袖菩薩像の衰退は石窟において早く始まり,単独像においては比較的遅くまで残存する。これはおそらく,6世紀中頃に始まる新しい仏像様式(響堂山石窟等のインド風の様式)に関係があるものと考えられる。大袖菩薩像は,5世紀末以来一気に漢化を強めた“中国式仏像”の最も中国的な最終段階であったといえよう。-95 -
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