鹿島美術研究 年報第8号
121/364

⑦ ギュスターヴ・モローの「サロメ像」に就いて術に一~美術家は勿論のこと,フローベール,ユイスマンス,マラルメ,ワイルドとBNと略す)の東洋関係の図版査料と,パリの国立ギュスターヴ・モロー美術館に保存研究者:国立西洋美術館研究員研究報ロメ》と水彩画《出現》は,豪華な衣装を身に纏って踊るサロメと,目前に現れたヨハネの生首のヴィジョンにおびえる半裸体のサロメとをそれぞれ描いたものだが,男性を破滅に導く所謂「宿命の女」としてのサロメのイメージを決定づけ,その後の藝いった文学者にも一一大きな影聾を及ぼした。従ってモローのサロメの「宿命の女」としての側面や後世に与えた影秤に就いては多くの文献があるが,この二点の作品の関係を始めとするモロー自身のサロメ像の形成過程に就いては,猶十分な考察がなされているとは言い難い。本研究は本来,モローが参照した文学的,視覚的査料を詳細に検討することによって,上記の二つのサロメのイメージが分離形成されていく過程を具体的に辿る試みであるか,今回の報告ではその一端として,モローが参照したパリの国立図書館(以下されているデッサンとを対象にした調査をもとに,モローのサロメ・イメージに対する東洋美術の影籾に就いて考察する。モローが何時サロメの主題に興味を持ち始めたかは判然としないが,少なくとも1872年にはこの主題に取り組み始めていたことが,友人の手紙やデッサンの年記から明らかにされている。1870年頃は丁度モローの様式の転換期にあたり,この頃から後年人をして「宝石細工」といわしめた過剰なまでの装飾モティーフが画面に横溢する作品が制作され始める。サロメはその最も典型的な作品であるが,その装飾が醸し出す雰囲気はオリエントのものであり,モローの様式の展開がこの時期の彼自身の東洋美術に対する関心と密接に関わっていることは論を待たない。モローは既に1865年頃から,ペルシャの妖精を描いた《ペリ》に見られるように東洋美術に対する明らかな関心を示しているが,この頃彼がどのような東洋美術を参照し得たかを具体的に示すのが前述した二つの資料である。これらの資料はこれまでにもサロメのイメージ・ソースとして着目されていなかったわけではない若干の装飾や人物像の類似が指摘されるに留まっていた。しかし今回詳細に検討した結果,それらがモローのサロメに及ぼした影1876年にギュスターヴ・モローがサロンに出品した油彩画《ヘロデ王の前で踊るサ喜多崎親-97 -

元のページ  ../index.html#121

このブックを見る