12746及び12747)は,1869年に産業応用美術中央連合の博覧会に設置された東洋美術12747-42)とが若干形を変えて取り入れられている。また《ヘロデ王の前で踊るサロ1)と獣形の足台(Des.127 46-12-1)とが写されており,後者には「私のインドのデBNのアルバム『インドの神々』(Od.38)の神殿によるイメージ形成は無視できないよ響は,従来指摘されているよりもはるかに大きく,独自のサロメ像の着想や構図にまで及んでいるように思われる。その名も『東洋研究』(EtudesOrientales)と称するモロー美術館の二冊の画帖(Des.館でのモロー自身によるスケッチが集められたもので,日本から東南アジア,インド,ペルシャにいたる様々な東洋の美術作品が対象となっている。この資料とサロメの関係に就いては,カプランによって,サロメの上半身を描いたデッサン(Des.1587)にある「インドと日本の画帖」という書き込みがこれらの画帖を指すことが指摘されているが,実際そのデッサンには画帖に描かれた花の意匠(Des.127 46-13-2)と腕輪(Des.メ》のヘロデ王を描いた一枚のデッサン(Des.2275)に仏像の宝冠(Des.127 46-4 -ッサン帖より」という書き込みがあること,また《ヘロデ王の前で踊るサロメ》の右下に見られる連台に載る香炉が直接この画帖の中の一葉(Des.127 47-44)に基づいていることを新たに指摘することが出来る。一方BN所蔵の,東洋の図版を集めたアルバムに関しては,マチューによって帝国図書館時代に閲覧したものの番号の覚書が紹介されているが,それらとサロメとの関係に就いては,《出現》の楽人がこれらのアルバムの中の一冊から採られたと指摘されるに留まっている。以上述べまたごとくこれらの資料に装飾モティーフなどの直接的なイメージ・ソースを見出すのはたやすい。しかし,その影響はそうした表層での関わりに留まるものだろうか。それはモローがサロメを描く際のもっと基本的なイメージの形成にも大きく寄与しているように思われるのである。まず《ヘロデ王の前で踊るサロメ》に就いて見てみたい。左右対称の構図に関しては,マチューがラファエロの《神殿を追われるヘリオドロス》を挙げているが,奥に神像を配している点からいっても,画帖の中の石造仏教寺院内部(Des.12747-13)や,うに思われる。左を向き,左手を顔の前に差し上げて立つサロメのポーズに関しては,カプランによりドラクロワの《ユダヤの結婚式》の舞姫のポーズが挙げられている。しかしモロ-98 -
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