Od. 63)が存在することが判明したが,残念ながら今回はそれらのアルバムまで調査一つの可能性はBNのアルバム『インド人の神々の図像史』(Od.39)の中の宴会の図である。そこでは踊る女性と床に置かれた切られた首という直接サロメの伝説を思わせるような場面が展開されているが,遠近の関係が上下で表され,しかも空間表現が曖昧なために,宴席の真中に置かれた首はあたかも宙に浮かんでいるように見えるのである。また,サロメとヨハネの首との構図上の関係には,他ならぬ日本の浮世絵がヒントを与えたのではないかと思われる。『東洋研究』の中には多くの浮世絵のスケッチが含まれているが,その中に着物を着た立姿の人物の肩の後ろに,円形の枠を設けその中に別の人物の胸像を組み入れたもの(Des.127 46-6 -1, 7 -1)が存在する。そのうち特に女性を描いた方(6-1)は被りもののシルエットや裾を引きずる着物のイメージまでがサロメと似ている。首と女性の位置は,《出現》とは逆だが,デッサンの中にはサロメが左を向いたものも存在し,そこでは構図全体も縮小され,より強い類似を示している。《出現》のヨハネの首が完全な円光に囲まれているのも,この浮世絵の円形の枠取りとの共通性を示しているように思われる。こうしてみると,モローがサロメの構想を練る際に,既に知っていたこれらの東洋美術が,単に装飾モティーフを提供するだけではなく,培想や全体の構想にも影署を与えていたことは明らかであろう。本来聖書世界に属するサロメのイメージがこうした東洋美術を母胎に展開された背景には,聖書世界をオリエント化して描くという,オラース・ヴェルネを代表とする画家達に好まれた当時の歴史画の趨勢が勿論あったであろう。しかしそれらが飽くまで真実らしさを求めて,同時代のイスラム世界を聖書に持ち込んだのに対し,モローは過去の美術作品によりながら自由にインドや日本のイメージを取り入れている。これは,彼が参照した細密画にサロメを思わせるような図像が含まれていたことが直接の理由であるとしても,既成の図像を利用しつつ独自のものを生み出すモローの方法をよく示すものだろう。サロメこそは,聖書のオリェント世界を背景に,彼がイメージを広げられる最適の題材だったのだろう。[付記]今回の調査では,帝国図書館旧蔵のアルバムに就いては,モローの『東洋研究』第一冊の中(Des.127 46-16-1, 2)にも図書番号の覚書(Od.69a, Oe. 56, Od. 62, するに至らなかった。今後の課題としたい。またモローの『東洋研究』を初めとする100-
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