鹿島美術研究 年報第8号
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tr註t,Wien 1931)。この団体のメンバーは,広くとれば友人群ともいえようが,基本的II. ドイツ・ロマン派以前の友情画の前史以前に,これに先立って,一般に形式上での友人間の対等という点が確保されなくてはならない。すなわち,友情についての,内容上の対等という規定が,表現上の対等という形式(Koordination)を要求するのである。友情肖像画を他のものから分かつのも,この点なのである。各種の親族画や実際上従属関係にある者たちの肖像画は友情画に含められてはならない。というのも,これらの場合には多少とも形式上での価値の段階づけを認め,また必要とさえするが,友情画はこうした従属的表現(Subordina-tion)を拒否するものだからである。したがって,ある群像肖像画が友情画であるか否かを見分ける際のひとつの基準となるのは,画面上で仲間同志が形式的に対等に描かれているか否かという点なのである。そこで17世紀のオランダにおける群像肖像画についていえば,これは,リーグルのいうように,拡大された個人肖像画ではなく,ひとつの団体的性格を特徴とする団体肖像画(Korporationsportr註t)である(AloisRiegl : Das holl註ndischeGruppenpor-には友人群というよりも地位や各誉を誇る団員の集まりなのであり,またしばしば幹部を際立たせたりする程度のものであれ,従属的表現をとり入れていることからすれば,これについては友情画に含めない方が適当であろう。ランクハイトの研究には,ドイツ・ロマン派にいたる友情表現の変遷が,かなり丹念にたどられている。中世キリスト教美術の枠内では,一連の美徳像にならった「友情」が大聖堂の彫刻(シャルトル)や写本画に認められ,また聖書上のダヴィデーヨナタンの物語が写本画に見える。しかし,友情はこの時代にあっては,いわば彼岸的に解され,人と人との結びつきとして,それ自身で評価されていたわけではなかった。これらは先の表現方法では,(2)と(3)にあたるものである。一方,友情に高い評価が与えられ,(1)の肖像でもって描かれるようになるのは,中世末からルネサンスにかけてのことであった。というのも,友情肖像が租極的に描かれるようになるには,まず個々人による人間関係をそれ自身で価値あるものとみなす一定の意識が必要であり,また,友情による結びつきをよしとする評価は,此岸を向き,現世を肯定する時代にしか期待できないからである。この意味での本来的な友情画の成立とその経緯については,ランクハイトの見解に対してケラーの異論があるものの(HaraldKeller : Entstehung und Bli.itezeit des Freundschaftsbildes. In : -103

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