れら二人の指導的な研究者はスルバラン工房に関し,共通して工場という比喩を用いて大規模な共同作業体の存在を示唆した。これは,大量に存在する前述のいわゆる「スルバラン風」作品を念頭においたものだが,その想定は,当時のセビーリャの社会・経済的状況からも,また我々のいくつかの史料的事実からも肯定できない。スルバランの住居登録記録,ないし彼の関係した商業裁判の陳述記録等からの推定で,そのエ房の構成は最盛時でも4■5人程度,これは他の同時代画家,他の手工業職人の工房規模を特別に上まわるものではない(注1)。とはいえ,この時代,年間五百点を越える絵画作品を受注しえた画家がいたことも事実であろう。その際,個人工房というものの範囲を越えた,「座compafifa」とよばれる<師〉間の協力関係の存在を考慮する必要がある。(注1)これら一連の問題は,同封“Laforma de trabajo • • ・"においても論じた。「座」の基本的な形式は,血縁関係にある職人間でしばしば結ばれた長期間の共同作業契約と,複数のく師〉が大規模な仕事を請け負う際に組んだ一時的な共同作用体に分類できる。いずれの際も通常,その経費と利益は通常均等に折半され,同時に,とりわけ後者の場合,複数の有力な職人たちか,大注文を継続的に独占するためにも利用された。画家社会におけるこの制度の運用は,未だ断片的な研究によって知られる程度だが,美術史的な視点からその意味を考えると,まず第一に,工房という作業体ひとりの芸術的個性によって組織されていたと想定される一ーカ\必ずしも,絶対的な作品の制作単位ではなかったという点に重要な意義がみいだせよう。いくつかの具体的な事例は,大最の注文を受けた画家が,それを他の画家に再注文し,それを自らの工房から売りに出していたことも示している。また,工房自体の問題にもどれば,史料面から得られる推測は,その雇用員(エ房職人)の多くは,通常かなり短期間の雇用によって次々と回転していたことを示しがちであり,日雇い形態の雇用が頻般であった当時の事情を加味しても,工房というものの組織度はそれほど高くなかったと推測される。他のく師〉の工房との共同作業という要素によって,その枠組,境界が相対化される個人工房は,その内部においても,構成員の流動性という面からく組織化された制作単位〉という認識に疑問をいだかせるのである。明確に規定される芸術的個性の希薄さ,と規定できるこうした状況は,けっしてスペイン固有のものではないとはいえ,その程度は,絵画の商業化が著しく進行していたセビーリャにおいてとくに際立つ。大きな広がりをもちつつも無名性の強い「スルマエストロマエストロマエストロ-107
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