鹿島美術研究 年報第8号
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品バラン風」という現象は,こうした枠組のなかに成立したのである。しかし,ここで注意せねばならないのは,その杜会経済的枠組が独立して,画派の形成といった文化的事象を支配していたわけではない,という点である。既にその一面をみたように,絵画の制作,流通の大まかな枠組は,概ね他業種の産もとより非く芸術〉的なたちは画材や,イタリア,北方からの輸入絵画の売買にも従事していたし,また,彼らの多くにとっての主要な収入源は絵画よりもむしろ,彫刻,塑像の多色塗などの,ほぼ純枠な単純作業であった。ただしこうした背景にもかかわらず,視覚イメージの取引に認められる重要な相違点は,教会という,ひとつの権力による統制の存在である。その第一の問題は,既によく知られている制作注文に伴う厳格な規定に対する直接的統制しえた顧客であったという17世紀スペインの現実のもとでは,その「統制」は基本的に,単純な商習慣として理解する方がよい。教会の指示はときに,作品の非常な細部にまで及んだが,同時にそれは,既にいずれかの教会にある作品と「同様のもの」といった形式的な規定に終わる場合も多い。また,視覚芸術の領域には,書籍に対するような固有の審査機構はなく,また,広い意味での社会統制組織として機能した審問問記録を注意深く読めば,審問官の間での作品解釈の多様性が,一律的な規準に基づく視覚イメージの統制を困難にしていたことが理解できる。いわば,思想,理念の伝達手段としての視覚イメージがもつ一種のあいまいさが,個々の作品に対する統制を妨げていたのである。こうした事情は一方で,既に確立した形成の繰り返しを促し,当時の教会が同時に意図していた聖像の民衆への普及る_を可能にもした。しかし,半ば形式化した画家に対する直接的統制よりも,我々がむしろ注意を向けるべきなのは,その視覚イメージの解釈,即ち受け手の側への潜在的な,しかしより本質的な統制の存在である。たとえばアビラの聖ヨハネは,トレド大司教区公会議の議案準備のなかで,三位一体の図像を例にとりつつ,この図像が「民衆に誤りを引き起こすと考える」者があると批判し,これを「品格あるものとして見る」よう求めている。所Inquisicion(注2)がこれを対象とすることも稀であった。しかも,例外的に知られる審のそれとそれほどの差を示さない。多くのく画家〉であろう。しかし,教会がほぼ唯一,組織的に絵画注文をな作品の大量制作を必要とす画家たち-108-

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