鹿島美術研究 年報第8号
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きがあるだけで,功山寺像文明10年(1478)摂取院像文明17年(1485)引接寺像長享2年(1488)となり,これによって15世紀後半の10年余りの間に集中して六条東洞院仏所の墨書銘のある作品を3例得たことになる。このうち,今回発見された摂取院像には「大進法眼」という仏師の名前が記されていないが,その前後の年記を持つ功山寺像と引接寺像では六条東洞院仏所を代表する仏師で「大進法眼」という肩書きをもつ仏師は,ともに定勢であるので,摂取院像の「大進法眼」というのは,やはり定勢である可能性が高いと考えられる。この肩書きに現れる「進」という字を書く「大進」とは,本来京職,修理職,大膳職,中宮職,東宮坊などの各職の上位に位する判官であり,従六位相当の職階とされている。したかって,定勢は「大進」という俗官の職階と「法眼」という僧綱位を重ねていることになる。仏師は,「造東大寺司」などの官工房に属し,官位・官職を持つ官人で俗名を名乗っていた8世紀の段階,大寺院に工房が形成され,僧名を名乗る仏師が造仏に携わるようになった9抵紀から10世紀前半の段階を経て,10世紀中葉以降には,僧名を名乗りながら寺院から独立して市中に工房を開く者が現れてきて,有力工房の棟梁らには講師職や僧綱位など僧侶としての位を得る段階にいたったことが明らかにされている。彼らは僧名を名乗り僧綱位を得ながら実質的には俗人と変わらぬ生活をしていたことが知らされている。13世紀に入ると,僧綱位と合わせて俗官名のきを持つ仏師が現れるようになる。その後14世紀には「式部」,「大蔵」といった官庁名や,「大輔」,「大進」といった職階を僧綱位に重ねる例が増えてくる。室町時代の仏師の姿を知る資料のひとつに,原本には土佐光信の絵があったといわれ,15世紀の京都における職人の風俗を伝えるとされる「七十一番職人歌合」があるが,そこに描かれた仏師は頭を丸め法衣を着て袈裟を掛けた姿で,蓮弁を削っている。詞書には「阿弥陀のざう先蓮華座をつくり候,おりふし法師ばらたがいて手づから仕候」とあり,当時の仏師が僧形であったことが知られる。官庁名や職階を僧綱位に重ねて肩書きとするようになるという変化は,仏師が僧形で僧名を名乗りながら市中に住み,妻帯もしていたというような俗人と同様の生活を営んでいたことから生じたことなのか,今後の研究の課題のひとつであろう。_113

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