鹿島美術研究 年報第8号
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銘文や文献などの資料,先学の研究から,室町時代には,前代から続く円派,院派,慶派の系統の仏師たちが,三条仏所,高辻大宮仏所,六条万里小路仏所,七条大宮仏所,七条仏所,七条東洞院仏所,七条西仏所などの仏所を京都の市中に構えていたことが知られている。現在のところ,六条東洞院仏所を記した仏師系図も知られておらず,この仏所がいかなる系統の仏所であるかは明らかではない。定勢というこの仏師の名前からも,院派,円派,慶派のいずれと関係があるか判断することは難しい。多くの仏所が並び立ち仕事を奪い合っていたこの時代にあって,とくに15世紀最後の四半世紀は応仁の乱後の復興期に当たり,造仏や修復の注文も増加したと考えられる。当時,功山寺は文明9年(1477)に応仁の乱から帰国した大内政弘によって復興が進められていた時期であり,僧形像もその事業のなかで制作されたと考えられる。いっぽう,引接寺は応仁の乱で被災し,延徳2年(1490)には同寺で勘進能が催されたことが,『蔭涼軒日録』に記されている。閻麿像もやはり一連の復興事業のなかで制作されたものであろう。このように,定勢は有力守護大名によって支えられた地方寺院でも,京都の庶民の信仰を集めていた寺院でも仕事を残しており,特に仕事の場所がある範囲に偏っているというわけではないようである。定勢という仏師の全体像はまだ明らかではないが,同時代の仏師としては数の多い3体の現存作例を残しており,当時もかなり活躍した仏師であったろうと考えられる。また,京都・奈良のいわゆる中央仏師の地方進出は,成朝や運慶が将軍,執権,有力御家人の求めに応じての鎌倉に下行したのを契機とし,鎌倉時代半ばには院派,円派,慶派それぞれに盛んに地方に進出していることが知られているが,この傾向は室町時代に入っても続いており,定勢と同時代の15世紀末にも,延徳2年(1490)七条仏所康珍法眼作の徳島県建治寺木造阿弥陀如来立像や明応3年(1494)七条大仏師大蔵卿康忠作の長野県照光寺木造大日如来坐像などの例が知られている。定勢による功山寺像の制作も鎌倉時代以来の中央仏師の地方進出を受け継ぐ室町時代の仏師の動向を窺わせる一例となるものである。以上の成果の一部は,摂取院木造地蔵菩薩像を平安末期における類例作品と比較して得られる様式的位置付けに関する考察とともに,その段階までの調査研究の成果をまとめて,平成2年7月21日に開催された美術史学会西部会例会において「摂取院木造地蔵菩薩坐像と六条東洞院仏所について」と題して口頭発表を行った。そのときご-114

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