和二年の真景図を知るに至った。彼の真景図の画風展開を辿るのに不可欠な作と称してよかろう。なお,蒙斎の記述から大野文泉もこの瀑布を描き,また両者のスケッチも数点を数えたことが判る。これらの作の出現を待ちたい。さて,文泉の作とされる数少ない真景図のひとつに「奥州白河郡大濱村山泉図巻」(神戸市立博物館蔵・制作年不詳)がある。第一泉より第十二泉まで(第五泉欠)の十一景の山中の瀑布を揺いたもので,彼が瀑布図を得意とした様子が窺える資料である。彼には他に「浦の余波」と題する松島の勝景を写した画巻(文化13年)と「海内奇観五十巻」があったことが記録から知られる。松平定信と真景図との関わりについて,まず想起されるのが文麗の「公余探勝図」(寛政5年)である。定信の江戸湾岸視察の副産物と称され,海防上の目的もあって写生と位置づけられる本図ではあるが,しかしより純粋に地誌的な興味から選ばれたとしか思われない景観も少なくない。また白雲の制作になる種々の真景図も,その体裁よりみて定信に提出するためのものだったとは恐らく間違いない。『集古十種』編纂に関しておよそ関係があるとも思われない,これらの入念な猫写の真景図は何を物語るのであろうか。秋里饉島編・竹原春朝斎画『都名所図会』が安永9年に刊行されて以来,各国名所の図会が徐々に出版されていき,とくに寛政8年から文化3年頃にかけては名所図会ブームとでもいった世相が出来する。地誌への関心は風景に止まらず,その他の産業や風俗にも及んでいくのは時間の問題であった。『日本山海名物図会』(宝暦4年刊)から約半世紀を経て,より精細かつ躍動感をもった図を挿入して成立したのが寛政11年刊『日本山海名産図会』である。何度か版を重ねたらしく,その人気の様はいくつかの挿図がやがて浮世絵師たちに図柄を提供することになったことをみても了解されよう。このように地誌編纂の機運が最高潮に達した時期に,はなされたのである。定信の命による文罷のいくつかの紀行の際の記録,たとえば寛ろ日記」東北大学附属図書館蔵)などをも考慮に入れるとき,定信は領内のみならず全国の詳細な図入りの地誌を作ろうとしたのではないかとさえ想像したくなるのである。なお定信はこの文化年間,広瀬蒙斎をして『白河風土記』二十八巻を編纂させて同11• 12年の関西・中国・四国紀行の際のもののみであったが,われわれは新たに政6年の松島行(「松島画紀行」「松島日記」)や文化4年の松島・平泉探訪(「ふとこをめぐる画人たちの紀行-117
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