鹿島美術研究 年報第8号
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おり,同じく新井白石の著した『奥州五十四郡考』にこの蒙斎をして補遺を加えさせていることも付記しておかねばなるまい。西欧版地理書の舶載や,その和訳の事業も定信周辺の蘭学者の間で盛んに展開されており定信の国内地誌編纂に一層の拍車をかけたことも想像される。②白雲と亜欧堂田善白雲と田善との関係については,西村氏が前掲書のなかで「亜欧堂田善の筆で紙本淡彩の小点に同じく富岳絶頂之図がある。(白雲の「富嶽絶頂図」須賀川・個人蔵,引同者註)。ほぼ図様を一にする点及び帝室博物館所蔵に油彩浅間山屏風があるところを以てすれば,田善もまた恐らくは白雲と行を偕にして信濃路の瞼を探り富嶽山頂の奇絶を窺ったことがあったものかもしれない。白雲と田善の間には必ずや交情蜜の如きものがあったに相違ないとは想像されるが,遺憾ながら現在までのところではそれを裏書する文書的立証は見当らない。」と言及されている程度で,徒来ほとんど顧慮されてこなかったようである。しかし,ほぼ時を同じくして定信に抱えられ,習得した画法こそ異なるものの写実的な作画に取り組んでいった両者であってみれば,むしろ密なる関係にあったとする西村氏の推測は極めて当を得た見解だと見倣してよかろう。なお,白雲自筆の絵画関係の雑記帖『彩絵方』(秋田・本覚寺蔵)には,文晟らのものに混じって田善からの聞き書きや銅版画に関する記述もみられ,両者の関係を教えてくれる。前記引用文にある田善筆「富岳絶頂之図」についてはいままでのところ所在がつかめないので,ここでは同じく言及されている「浅間山図屏風」(東京国立博物館蔵)についていささかの考察を巡らしてみたい。六曲一隻屏風の右寄りに大きく浅間山を配した本図は,油彩画の屏風として極めて特異な存在としてよく知られている。本図の制作の契機について従来の論考では文晟の『名山図譜』(文化元年刊)中の「浅間山図」から図取りしたものと推測されてきた。なるほど確かに,両者の山の形や雲煙表現の類似がそれを証明しているかに見える。私もそう考え,横への展開を必要とする屏風へ浅間山を収めるにあたっては恐らく伝統的な富嶽図屏風に範をとったのだろうと考えてきた。しかし,秋田・本覚寺蔵の白雲筆「真景帖」(紙本墨画)を知るに至りこの点につき,疑問を持つに至ったのである。村氏の解説では,享和年中の作と推定されている。さて,本帖に関してとくに興味深16点の写生図からなるこの画帖は,京坂および中仙道の旅中に描かれたもので,西-118-

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