鹿島美術研究 年報第8号
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いのは,浅間山の写生図が収録されている点である。見開き頁にさらに一紙を継ぎ,画面比率はほぼ田善筆の屏風に等しく,また画面への浅間山の収め方も同巧とみなしてよい。前・中景の扱いが異なる点,両者を即座に関連づけることは危険だが,その間に同じく白雲筆『名山十八景図』(秋田・個人蔵)中の「浅間山図」を置いてみるとき,三者には極めて密接な関係があることに気付かされるのである。『名山十八景図』は西村氏の指摘されるように,筆法から白雲晩年の文政期の作として誤りないと思われるが,一見して文麗の『名山図譜』中の諸図と同巧の図柄を呈していることが確認できる。文腿の訪れた形跡のない九州地方の名山も含まれることから,恐らく本図の原型をなすスケッチ(おそらく寛政末の紀行の際のもの)が存在し,その多くをもとにして文麗の『名山図譜』がなったと推測される次第である。文晟の『名山図譜』からの図取りとともに白雲画からの影靱関係の存在した可能性も無視し得ないことを指摘しておきたい。③亜欧堂田善と風俗画田善作洋風画の大きな特色として,風俗画的要素の濃厚な点が従来から指摘されてきた。小田野直武筆「不忍池図」(秋田県立博物館蔵)に代表されるような,秋田蘭画が培った和洋混在の未消化な真景図を,司馬江漢が純枠の風景画にまで発展させ,さらにそこに田善が風俗画的要素を加味して独自の洋風画を作り上げたとするのが大方の見方であるといってよいだろう。さて,田善の実用面での業績としてあげられるのが「医範提綱・内象銅版画帖」(文図の製作にあったことは疑いない。しかし,それにしては彼の銅版画作品には,例えば江戸の風景や風俗を扱ったものが多すぎる(油彩画においても事情は変わらない,例えば「今戸瓦焼図」や「両国図」など)。当時の記録をみても,腐蝕銅版画製作には欠かせない腐蝕液の入手が極めて困難だったことが窺われ,それ一つをとってみても,これらの名所銅版画の製作には大きな後楯があったと考えざるを得ないだろう。その人物は定信を措いてなかったはずである。現存する田善の銅版画中,その大部分を占めるといっても過言でない江戸名所図は,定信の意向を体してこそ初めて成立したと考えられないだろうか。定信は鍬形恙斎とも関係をもち,彼に「東都繁盛図巻」(享和3)やその代表作とな化5年刊)「新鍋総界全図」「日本辺海略図」(以上文化6)そして「新訂万国全図」(文化7年刊)である。定信の命じた銅版画技法習得の目的の一つが,これら解剖図や地-119

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