鹿島美術研究 年報第8号
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④ 亜欧堂田善と鍬形恙斎った「近世職人尽絵詞」(文化3年)を描かせている。その制作依頼の動機は的確に平戸藩主・松浦静山の『甲子夜話』(巻之十二題二十二章)は,代弁してくれている。すなわち,「昔の絵巻物の後の証となるは,皆其時俗を有のままに書伝ふるを以て也。今の時俗を後に示すは,此巻軸を捨て外にあるべきや。老侯(定信のこと)の牛洩馬勃敗穀の皮まで収め貯へらるる雅量は,いかにも不凡なることなり。」この,山東京伝作「江戸風俗図巻」(寛政初)の序文(文化5年「抑此一軸を見しは十とせあまり四つ五つをへたる前の事にして,今の眼をもて見れは風俗のかはりたる事すくなからす。わつかの年をへるさへ,かように物のかはれる事おほかれは,もしももとせの後のひと此うつし絵を見は今の目をもて岩佐菱川等の絵を見るここちこそすへけれ云々」)や跛文,『近世奇跡考』(文化元年)の凡例(「近き世の考は,かへりて疎にして実を失ふ事すくなからず。(中略)後の世には又,今をいにしへとしてしたはむ人もあるべきものをと,ふとおもひよりしより云々(略)もし後の世に,今をいにしへとしてしたふ人あらば,いささかかうかがへの便あらむ欺」)とも重なり合う,当世のものも後世には古物となるという合理的判断に立った当世風俗の記録保持の立場。これこそまさに,田善洋風画に風俗性を導入せしめた理由だったのではなかろうか。このことはまた同時に,先述した地誌製作作業の一貫としても捉えられるかもしれない。田善の活躍期に,いまだまとまった形での江戸の地誌は出版されておらず(天保期に出版されることになる『江戸名所図絵』の大著はようやく端緒についたばかりであった)銅版画をもちいた画期的な江戸名所図絵の可能性を秘めた田善の名所図だったとも考えてよいのではなかろうか。さてここで,定信の領内巡視(寛政6年)の際に田善が見出される契機となった図が「江戸芝愛宕山図屏風」だったとの伝承にも注目しておきたい。「浮世絵式美人を其儘に,それに配するに銅版画式の描法の背景を添えた六曲屏風半双」(油井夫山「亜欧堂と浮世絵」/『浮世絵15』大正5年)というものであったこの図と定信の因縁の深さをみても,田善がのちに風俗図的要素が濃厚な銅版江戸名所図を製作する下地は,ある意味で最初から準備されていたと考えられるのである。その代表作のひとつ「江戸一目図屏風」(文化6年・津山郷土博物館蔵)とほぼ同時期に制作されたとされるのが意斎の「江戸名所之絵」である。この木版画と同図柄を-120

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