示す作に田善の銅版画「東都名所全図」がある。画面縦横の比率の関係上,惹斎画の方が空の占める割合が大きいか,画面に取り込んだ江戸の景観は全くといってよいほど等しい。田善は文化2年の「朧山比翼塚」(年紀初見作)以来,銅版画製作も徐々に軌道に乗ってきたようで,文化5年には「医範提綱・内象銅版画帖」を,そしてこの恙斎画が制作された文化6年には「ゼルマニア廓中之図」「新鍋総界全図」「日本辺海略図」などを製作。また同年の年紀をもつ『天趣自得説』と題する写生帖ものこり画技・銅版画技法の進展のさまを見ることができる。そして翌文化7年には彼の業績の第一におされる「新訂万国全図」が完成することになる。田善の江戸名所図銅版画の製作年は判明していないが,特にこの「東都名所全図」を含む小版風景銅版画と通称されるシリーズの版元が,前記「医範提綱・内象銅版画帖」のそれと同一であるところから,文化5年以降さほど時期を隔てずに刊行されたと推測されている。とすれば恙斎画「江戸名所之絵」と時期的にはほとんど隣接すると考えても大過ないわけで,むしろ画の内容より一方が他方をもとに製作したと考えるのが自然であろう。恙斎は数点の浅草寺図(天明年間)や定信旧蔵の「東都繁盛図巻」(享和3年)などの肉筆画をはじめ,「江戸名所図会」(天明5年)『絵本吾嬬鑑』(同7年)『東海道名所図会・第六巻』(筵政9年)などの版画作として,鳥敵図的な視点を駆使した江戸名所図を既に多数発表していた。彼が江戸の景観図を得意としたことは原徳斎の『先哲像伝』や斎藤月本『武江年表』に記す通りである。一方の田善にも,前記の「江戸芝愛宕山図屏風」(党政6年以前)や絵馬「佃島より品川遠望図」(享和2年作・焼失)などの景観図があったことが知られはするが,鳥轍的な視点をもった江戸の景観図は,彼の他の多くの江戸名所図のなかにあってやはり異質である。私は現段階では恙斎画が先にあって,それをもとに田善画がなされたと考えている。定信に寛政期に仕えた森島中良と恙斎とは呪懇の間柄にあり,前述した享和〜文化期(このころは丁度田善が江戸で和製銅版画の開拓に取り組んでいた時期にあたる)の定信注文の恙斎作の存在をも考え合わせれば,田善と点斎両者は極めて密接な関係に置かれていたと想像されるのである。事実,油彩・銅版画を問わず田善画のなかに登場する,ときに卑俗ともいうべき風俗画的要素(例えば,団子を頬張ったり喧嘩をしたりする人物)の存在は,恙斎の代表作「近世職人尽絵詞」のなかの各所に見出せるものであろう。癖のある人物の形態にも恙斎画のそれに一脈通じるところがあるの121-
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