定信」(福島県立美術館研究紀要3•昭和63)や内田欽三氏(鍬形恙斎筆『江戸一目図ではなかろうか。田善の人物図について,従来より月倦の作風との関連が指摘されてきた。しかし,特に彼が江戸滞在中の作風展開を考える上で,この意斎の存在は無視できないことと考えられるのである。さて,田善はいかなる意図のもとにこのように細密な景観図を製作したのかが課題として残る。各種の江戸風景・風俗図シリーズが各論とすれば,本図はその総論としての位置付け,すなわち前者の各図の地理関係の案内役として位置づけられていたのであろうか。この関係は,西洋の地理書に見受ける巻頭地図とその地方の風景・風俗画との関係と相似形をなし,本図の成立の背景に舶載の地理書の存在を想定することができるかもしれない。いずれにしろ,当時の田善の地図製作上の活躍を念頭に置くとき,彼には都市図の製作が求められていたとしても不思議はない。いやむしろ,ものごとの体系的な把捉を好んだ定信の存在を考えれば,この要求はむしろ当然の成り行きだったのではないかとも思われるのである。⑤ 松平定信の絵画観とその反映松平定信の絵画観については,例えば岡部幹彦氏「亜欧堂田善の実用銅版画と松平屏風』の成立をめぐって」(サントリー美術館論集3•平成1)などに触れられており,本報告もそれらに教えられるところが大きかった。定信の手記である『退閑雑記』や『花月草紙』あるいは極く最近図録が刊行されその全貌が明らかとなった『古画類衆』(東京国立博物館蔵)の序文などに端的に述べられるところの実用主義的な絵画観(絵画の記録性の偏重)は,いうまでもなく『集古十種』やその続編とも言える『古画類衆』の編纂に集約される訳であり,既に指摘されるように定信旧蔵の各種惹斎筆絵巻も,その一環として捉えられるものであろう。「近世職人尽絵詞」中巻の詞書を担当した山東京伝にも「江戸風俗図巻」(寛政初年)や『近世奇跡考』(文化元年)『骨董集』(文化10■12年)などの考証面の著作がある。きものばかりでなく,現時点での風俗の諸相を記録しておこうとする態度は,例えば「江戸風俗図巻」の序文で端的に宣言されているのである。『集古十種』や『古画類衆』などいにしえの事物・風俗ばかりでなく,先述したように当世のそれらの記録についてもが一大関心事だった定信にとって,京伝の指針はそのまま自己のそれと重なりあうものと写ったに違いない。文化10年,京伝は文麗宅に招かれ,文麗有するところの膨大な量の書画を閲覧模写-122-
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